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Channel: まほろば自然博物館
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やぶ椿 さまよう路を 指し示す

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 さぬき市地方は冬型の気圧配置が強まっているため雲が広がり、雪の降っている所があった。気温は氷点下0.6度から1.6度という、今季初の低気温。湿度は80%から74%、風は5mから8mの西の風が一時は強かった。明日の25日は、冬型の気圧配置が続くため、雲が広がりやすく、明け方にかけて雪が降り雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 早寝早起きの奥方は、朝の4時半前から起きて、ケアマネ研修の宿題をやっていた。私は、お風呂に入ったら黒い砂利が詰まっていて、お風呂に入れず、その砂利を窓から投げ出して浴槽をきれいにしていた・・・という悪夢を見て飛び起きた。すると、あたりは真っ白け・・・。

 

 イベント中止のメールが来ないもんだから、8時半にわが家を出て9時前にさぬき市役所に着いた。9時半から開会式。お客さんは90名弱。スタッフも20~30名。寒い中を熱心な方々が多い。

 

 これが今日のイベントの資料。高松市文化財保護協会らの「ふるさと探訪」という文化財学習会である。

 

 こういう予定だったのだが、天候が悪くて寒い・・というので、A班は地蔵寺へ。B班は志度寺へ、この旧道の町並みを歩いて探訪するということになった。町並みに入ると、少しは風も避けられるようになった。

 

 高松市歴史民俗協会とか文化財保護協会とかと言うもんだから、てっきり、おじいさん、おばあさんかと思いきや、案外と若い方が多いらしい。私は最後尾から安全確保しながらついていく。

 

 途中に、旅館いし屋さんがある。「以志や」と書いてある。明治時代中期創業の静かで落ち着いた旅館で、建物は文化庁より「登録有形文化財」として認定されている。主屋は木造厨子二階建て、和小屋組、片母屋造、本瓦葺き。二階は讃岐漆喰彫刻の代表といわれる「隅柱漆喰彫刻」や漆喰虫籠窓が見られ、壁や軒裏は白漆喰塗り籠め仕上げになっている。割烹は季節の旬の食材を使用しており、味が自慢だとか。

 

 で、私たちの受け持ちはここ。四国霊場86番札所、補陀落山清浄光院志度寺である。本尊の十一面観音菩薩立像と両脇士立像は国の重要文化財にしていされている。開創は推古天皇の三十年(625)と古く、凡薗子尼(おおし・そのこに)が十一面観音を新たに刻んで観音堂を造立したのが始まりとされている。

 

 この方が、私たちの会長の渡邊さん。

 

 ここが志度寺の本堂で、国の需要文化財で、寛文十年(1670)、高松藩主松平重公により建立、観音堂ともいい、県下最大級の仏堂である。桁行七間、梁間五間、入母屋造りの本瓦葺で、全面には軒唐破風をつけた三間にわたる向拝を設けてある。

 

 閻魔堂は寛文十一年(1671)、本堂の東南方に西面して建てられ桁行三間、梁間三間、向拝一間で、屋根は宝形造本瓦葺きである。閻魔大王の頭上には十尊を飾っている。こういう説明を講師の会員さんがするので、同じ事を、後続の人たちに私たちが復唱するのである。どうしても、早い人と遅い人の差が出てきて、列は伸びてしまいがち。そのサポートをするのである。

 

 こちらは「奪衣婆堂(だつえばどう)」で、閻魔堂に相対して東面している。間には「放生池」があるが、現在は水はない。形式と大きさは閻魔堂に同じ。奪衣婆とは、三途の川のほとりで、川の渡し賃の六文銭を持って来なかった亡者の着物をはぎ取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんねおう)に渡す鬼婆である。懸衣翁は衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされている。今でも、棺に紙の六文銭を入れるのはこのためである。

 

 海女の墓、無染庭などは、昨日に触れた通り・・・。

 

 海女の墓のすぐ東隣に隣接した墓地に、高松城主生駒親正(いこま・ちかまさ)の墓塔がある。この生駒家の先祖が「藤原房前(ふささき)」であり、海士の玉取伝説の主役の「房前」である。そのゆかりによって、親正が志度寺を信仰し、墓塔がここに建立されているのである。ちなみに、高松市錦町の弘憲寺にも同じ石材を用いた生駒親正夫妻の五輪塔がある。

 

 志度寺のガイド時には風も止み、雪もなく、気持ちよくガイド出来たのだが、午後からはまた雪がちらつき始め、みるみるあたりは真っ白になってきた。

 

 明日の朝が心配と言えば心配なのだけれど・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分が置かれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡 正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とす る。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いて いこう」この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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