さぬき市地方は寒気の影響で雲が広がり、雪や雨の降っている所があった。気温は0.7度から8.0度、湿度は78%から66%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の27日は、寒気の影響が残り、雲が広がりやすい見込みらしい。
今日は全国的に火曜日となったので、恒例のさぬき市前山にある「おへんろ交流サロン」に出勤(?)した。いつもの「俵札」のお仕事である。道路には雪は殆どないが、脇道や町道の山陰や樹木の下には雪が残っていた。
で、先週からの宿題の「田淵家納札」ソート・リストから、100枚の納札を探し出す作業に入った。遠隔地(北海道や新潟・鹿児島など)から10枚、香川県の内から、現在のさぬき市に該当するもの90枚の合計100枚を23,00枚のファイルから探し出すのである。
寒川家や飯田家からは江戸時代のものから100枚を抽出するのだが、私の田淵家は、どういう事情だか明治以降の物しかない。だから、この近くの人のものを展示して身近に感じてもらおうとしているのである。この100枚の中から、展示に耐えられるもの50枚程度に選別する。
お昼からは、さぬき市津田町の古民家散策というイベントに参加した。主催は「さぬき市文化財保護協会津田支部」で、その会長も「渡邊会長」がやっている関係で誘われたのである。
この津田町は、漁業と砂糖会所、砂糖の積み出し港として栄えた町だという。だから、大きな倉庫や大きな商店、海運業者のお屋敷があった。ところが近年は高齢化などで、旧商家などが次々と壊されていき、新しい住宅や駐車場に変貌している。そこで、電気屋さんでもあり二級建築士でもある安藝さんという方の案内で、津田町の古民家を訪ねることになったのだという。
この日、集まったのは保護協会会員さんと私ら一般人らでおよそ20名あまり。私も昭和の50年代から60年代あたりには、この界隈を走り回ったことがあるのだが、電電公社からNTTに変貌してからは訪れたことがなかった。だから、まるで浦島太郎状態・・・。
安藝さんだとか、大眉さんとか板屋さんだとかいう名前はうっすらと記憶にあるが、隣町なのに全くの記憶の彼方だった。
途中でお茶のお接待を受けたりして休憩しながら町並み散策は続いた。
栄華盛衰は世の常ではあるが、明治になり安い外国産砂糖が輸入されると、一気に讃岐三白の「和三盆糖」は衰退し、砂糖の輸送業も廻船問屋も崩壊してしまった。その上に、大型スーパーの郊外進出によって、旧商店街も閉店や廃業に追い込まれてしまった。
今日の最後は、法道寺という真言宗善通寺派のお寺さん。ここは、昨年の秋にも紹介したが、あの「日本ハム・ファイターズ」のオーナー「大社(おおこそ)義規(よしのり)さん」の菩提寺である。檀家さんは大社さんだけ。
で、近藤住職から、お寺の由来や縁起などについてのお話を伺った。
ご覧のように、ファイターズのスタジャンを着用して、「ファイターズ・ミュージアム」の「館長さん」というイメージ。
だから、大社オーナーのユニフォームや、
ヒルマン監督のユニフォームや
2006年の日本シリーズで優勝したときの写真パネルなどが所狭しと掲げられている。本堂には、毎日、北海道から送られて来るファイターズ新聞がお供えされている。
今日の掲示板はこれ。「頼まれたらすぐやる、誠実にやる。それをコツコツ積み重ねることが一番大事」という伊牟田均さんの言葉から。経営不振にあえいでいた九州の名門ホテル「城山観光ホテル」の運営会社、城山観光(鹿児島市)を私的整理後、最高益に導いた伊牟田均社長(65)。野村証券で企業の育成・再生の腕を磨き、再建請負人として38年ぶりに鹿児島に呼び戻され5年半。「お客様も社員も幸せを重ねられる場所がこのホテル」とふるさとへ優しいまなざしを注いでいる。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。