さぬき市地方は気圧の谷の影響で瀬戸内側や西部を中心に雲が広がっている。気温は22.6度から28.3度、湿度は88%から71%、風は2mから3mの西南西の風が少しばかり。明日の18日は高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
今日も奥方はお休みらしくて読書なんぞをしている。聞けば、代休が余りすぎているので消化中なのだと。それでは・・ということで、いつもの香川県立図書館へやってきた。火曜日だかに借りた本は全く役に立たなかったので、今度こそは・・・とやってきたのである。
本当は観音寺市にある粟井神社のアジサイを見ておきたかったのだが、奥方が在宅というのでは仕方がない。適当に時間をつぶしてお昼前に帰ればいい。
今日はこういう本をチョイスしてみた。
こういうお話である。京都一条の浄教寺の脇谷覚行のお話である。この和上さんがお話したことを書き留めている風な文章である。いわゆる「庄松ありのまま記」に出て来るお話ではない。
そのお話が記録されているのが、この本である(134P)。で、そのお話の元になった本が、
この本であると、何冊かの本に紹介されている。ところが、この本のどこを調べても、そういうお話は出て来ない。前半は各地の妙好人のお話が、後半には、名僧のお話が掲載されているのだが、その「名僧編」の中にも「脇谷覚行」は出て来ない・・・。他にも「妙好人のことば」という梯實圓勧学和上の本があるかと調べたがそれもない。一体、脇谷覚行和上はどこに消えたのであろうか・・。
これが私のホームページの中の「庄松堂」である。いろんな処にある庄松さんのお話をリンクを張って紹介しているのだが、プロバイダーの都合上で廃止になったり、プロバイダーの乗り換えや変更などがあって、それを追いかけて修正するのは大変な作業になっている。
しかも、更新してもすぐには新画面には反映されない。翌日とか翌々日とかにならないと、修正された画面にはならない。だから、正しく修正されたかどうかは数日しないと確認できないから、これまた、ややこしいことになってくる。
で、もののはずみで、また、この本を買ってしまった。体裁が違うだけで、中身はそんなにも変わらないのだけれど・・。
脇谷覚行和上のことが分かれば早々にも庄松さん研究から離れたいのだけれど。
私の68歳の誕生日は、今年は来週の月曜日。19日が父の日だとも言うているが、日曜日だと飲むと帰れない。そこで、明日の土曜日に誕生会をやって、土曜の夜はお泊まりして、日曜日の朝に帰る・・・というパターンになるらしい。そんなんで、今日はおとなしくお勉強と云う訳。
今日の掲示板はこれ。「念仏しても食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」というもの。ある老母が息子に発した言葉であるという。その前日に、息子は母に対して「なんで念仏する必要があるんや、念仏したって食えんじゃないか」と言い放ったという。母は息子のその言葉に一晩思い悩んだ末、この言葉を絞り出すように訴えたそうだ。「念仏では食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」。それが、この言葉だった。私たちはこの息子の気持ちを否定できない。念仏しても何の役に立つというのか。答えられる大人は少ないだろう。念仏がはたして飯のタネになるのか。実はその疑問こそ愚かなのだが、ついそう問いたくなるほど、念仏は一見、か弱く頼りないように感じる。・しかし老母の言葉に胸を打たれるのもまた事実ではないだろうか。「食べたもんが無駄になる」とは、つまり自らの人生が空しく過ぎてしまうことだ。念仏がわかる、わからない以前に、そもそも日頃の不安の元が何かもわからぬくせに、安心ばかりは自分に解りやすい、安易なものを求める姿勢に、現代人の苦悩の源があるように思う。・念仏は理屈ではない。解ってから称えるつもりなら、理解する前に人生が終わってしまうだろう。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。