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Channel: まほろば自然博物館
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お役目を 一つ終えたり 秋の雨

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 丸亀地方は前線が四国の南海上にあるため、朝方には雨が降ったし、夕方まで曇っていた。気温は23.5度から24.6度、湿度は86%から56%、風は3mから4mの西風が少しばかり。すっきりとしない一日になった。明日の10日は、高気圧に覆われて、概ね晴れるらしい。

 

 午前3時過ぎには土砂降りの雨で起こされた。蒸し暑いからと、あちらこちらを網戸状態にしてあったから、雨が降り込んで水たまりができていたので、大慌てで窓を閉めて回った。

 

 今回の用事は終わったので帰ることにした。まだまだ、草刈りや庭木の剪定作業も残っているのだが、雨に濡れていては大変だからやめにした。だから、8時35分発のフェリーで帰ることになった。

 

 今度は二週間後の「いろは石ウォーク」の前日、10月22日に帰ってくることにしている。

 

 そのときに、刈り残した草や庭木の剪定もやることにしたし、網戸が何枚か破れているので張り替えたいし、障子も破れているものが何枚かある。それも直しておきたいし。だんだんと島の家も痛みが激しくなってきた。

 

 フェリーボートは9時15分に丸亀港に着いた。お隣の本島では瀬戸芸が行われているので、港周辺は車の渋滞や船を待つ若者たちで混雑している。私は人混みは苦手だから早々に港を後にした。

 

 昨夜、自治会長さんとも話したのだけれど、この人・・・「大石 ※ら」と書いてあるが、古文書に詳しい方、何と読みますか。

 

 自治会長さんは、「當ら:とら」さんだと言うのだけれど・・。

 

 この方は、「河本ミス」と書いてあるのだが、このしわく広島には「河本」という姓はないと仰る。宵宮のときに、提灯を寄付した人の名前で盛り上がったのだけれど、「川本」という姓は確かにある。でも、この遍路札は確かに「河本」と書いてある・・・。

 

 丸亀からさぬき市に向かう道中のあちらこちらで鉦や太鼓の音が聞こえていた。昨日、今日と、各地でお祭りが行われるのだろう。でも、だいたいが同じような音がする。所変われば品変わるものだが、獅子舞の音はどこも似たような音がしている。なんでだろう・・と考えていたが、どうでもいいことなのですぐに忘れてしまおう。

 

 わが家に戻れば「年賀はがきの予約注文」のお知らせが届いていた。まだ10月の上旬なのに早くも年賀状の予約なのか・・・。

 

 こちらは季節に関係ないのだが「同窓会」のご案内。うーむ、どうしたもんじゃろうかいのぉ~。

 

 この調査もしたかったのだが、おまつりには女性が7人ほどしか参加していなくて、娘遍路の話題は出せずじまいになってしまった。明治41年に20歳であったら、128歳になるから、もう、この世にはいない。昭和15年に20歳であれば96歳になる。こんな人がいるんじゃろうか。可能性はあるけれど。

 

 ということで、今日は移動日と休息日ということで、残務整理とか荷物の片付けで終わってしまう一日になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「おほいなる ものの力にひかれゆく 吾が足あとのおぼつかなしや」というもので、九条武子さまのお歌である。武子さまは西本願寺第21代法主大谷光尊さまの次女で仏教婦人会の創設に参加したという。だからこの「大いなるもの」は仏に近い存在であるのは間違いない。そのほか、武子さまについてつぎのような記述がある。

 「侯爵家出身の銀行員、九条良致氏に嫁ぎ、夫とともにロンドンに随行したが、1年半で武子さまは帰国、夫はそのまま英国に残り、別居状態が十数年続いた。これには美貌・教養・家柄(大谷家は伯爵家)の誉れ高い武子さまに、良致氏がなじめなかったからではないかなど、夫婦不和の憶測もあったが、武子さまは離婚どころか浮いた言動一つとらず、良致氏の帰国をひたすら待ちつづけた。1920年末に良致氏が帰国し、夫婦同居が実現した。武子さまは関東大震災の復興に奔走し、築地本願寺の再建、負傷者・孤児の救援活動などさまざまな事業を推進した。その無理がたたり42歳の若さでお念仏のうちに往生した。2人の間に子供はなかったが、よき夫婦関係であったと伝えられている」好奇心をそそられる人間像が浮かぶ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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