さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で曇り、夜遅く雨が降る見込みらしい。気温は15.4度から19.6度、湿度は94%から76%、風は1mから3mの北東の風が少しばかり。明日の21日は、引き続き前線や湿った空気の影響で、雨が降るらしい。
偶然に思い出したのだが、13年前の平成16年10月20日、午前10時ごろから降り出した雨が豪雨となり、12時半には、我が家をこのように壊してしまった。当時、家には母と奥方がいたが、逃げ出すこともできず、電気・電話も止まってしまい連絡不能状態に。幸い、向こうに見える旧宅に避難して無事。
当日は給料日で、奥方は銀行から現金を引き出したり当座の食材を買って帰った時は平常通り。それが一気に土石流でこうなった。台風23号だった。おりしも、またも台風がやってきている。
さて、今日は孫のなぎちゃんの合唱コンクールだというので奥方の運転手として行って来た。ここは、香川県民ホール。今は、「レグザム・ホール」と言うらしい。なぎちゃんのお兄ちゃんからだから6年間だか、毎年、ここにやってきたが、今回が最後となる。
ここの大ホールだからこんなものだ。
ということで、コンクールの写真はない。
こういうご時世だから、ビデオカメラあり、スマホで動画撮影したり、タブレットで撮影したりとご婦人たちも手際よい。見ていれば、何年生の何組のお母さんやな・・とか、あ、一年生が終わったから帰るのか・・とかと、そのほうが面白い。音楽は聞いてもわからんのだ。
だから、お隣にある「香川県立ミュージアム」をのぞいてきた。
今は、こういうものをやっている。でも、地方豪族たって、誰も知らない・・。
この人、「讃岐の永直(ながなお)」さんというらしいが・・知らない・・。
「物部守屋(ものべのもりや)」たって、聞いたことがない。ようやくわかるのが、空海さんとか智証大師円珍さんとか・・。
これは妙音寺軒先丸瓦・・というらしいが、7世紀中ごろ、現在の三豊市で讃岐最古の寺院・妙音寺(みょうおんじ)が建てられる。この寺の瓦は約7Km離れた宗吉瓦窯(むねよしがよう・三豊市三野町)で製造されたものである。宗吉瓦窯は日本最古の瓦葺宮殿である藤原宮へ瓦を供給しており、妙音寺・宗吉瓦窯を経営した人物は、寺院建立と宮殿建設という当時の施策について把握し、自らのポジションをいちはやく定めたことがわかる。
三豊市高瀬町にある猫坂古墓(ねこさかこぼ)から出土した遺物で、銅製の骨蔵器(写真中央)を、陶製容器(写真左)に納めて埋葬されていた。8世紀初頭には、古墳に代わる墓制としていち早く火葬の習俗を受け入れ、おそらくは都で作られた銅製の骨蔵器に遺骨を納めていたと考えられる。都での流行をキャッチし、いち早く導入するという動きを、8~9世紀に三野郡司として登場する地方豪族・丸部臣(わにべのおみ)氏が主導していたという。
この像は、綾川町にあった龍燈院綾川寺でまつられていたが、明治初年の神仏分離により龍燈院が廃寺となって焼却処分にされる筈のところ、綾川町堂床地区の人びとによって大切に護られてきた像である。 十一面観音や千手観音は「変化観音」と呼ばれており、密教やヒンズー教の影響を受けて成立した像とされ、讃岐国では、10世紀以降の作例が多くみられ、山岳寺院などで祀られていることに注目を集めている。 一説には讃岐国司として赴任した菅原道真が自ら刻んだという伝承をもち、天神信仰との関係もうかがえるものだという。
今日の掲示板はこれ。「生きてきてよかったと心の底からうなずける道を歩みたい」というもの。確かに誰もみんな、こうした道を歩みたいとは思っているのだけれど、そう、うなずける道にたどり着くまでが大変だ・・・。毎日、毎日が試練ばかりのような昨今だから。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。