さぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていたが、午後からは曇ってきた。気温は1.2度から6.4度、湿度は82%から64%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の15日は、引き続き、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
今日は集落の「山の神さん」の春の例祭の日。現地に8時集合・・・ということだったが、7時半過ぎから自治会のメンバーが集まってきた。この時、お茶の入った段ボール箱を運んだら、わずか数キロの重さなのに息が弾んで呼吸困難になってうずくまってしまった。寒さの為だったんだろうか。しばらくは動けなくなってしゃがんでいた。
落ち葉を掃き清め、しめ縄を張り替え、のぼりを立ててお祭りらしくする。この頃には落ち着いて、なんでもできるようになった。自治会のメンバーは10人だが、今回は服忌とか歩行困難とかで6名しか参加しなかった。だんだんと寂しくなっていく。
掃除が終われば、本殿前に集合して、二礼二拍手一礼して御神酒をいただいておしまい。これまでは、夕方から集会場で「直来(なおらい)」をやったものだが、今年からはなくなるのだという。時代の流れだろうか。
昔は、ここに拝殿があり、おこもりもした・・・というのだが、今は昔になってしまった。礎石が残るばかりである。
私が子供の頃には、こうした囲炉裏が近所にあって、暖房と照明と煮炊きの必需品だったし、
おくどさん(かまど)で煮炊きをし、お米を炊いたし、味噌汁も煮たし、お湯も沸かした。おくどさんは、昭和の50年代まで使って煮炊きをした。
お風呂も五右衛門風呂で、風呂を沸かすのは子供たちの役目だった。こうした生活の中で、山からの木の枝や木の幹や落ち葉やらが必要だった。これも昭和の50年代まで使っていた。
冬になると山に入って、こうした雑木を切り出してきて、枝は枝、幹は幹に切り分けて燃料にした。焚き付け用には落ち葉や小枝が必要だった。台所にガスが入っても風呂はやっぱり薪や割木が必要だった。
冬の休みには、こうした燃料となる山の木を切ることが大事な仕事だった。だから、チェーンソーを使っての作業にもなった。
だから、どこの家にも、こうした「木小屋」とか「木納屋」という建物があって、ここに一年間の燃料を積み込んでおかねばならなかった。電気もない、ガスもない、灯油もない時代、山に自生する植物は大事な資源だった。そんなところから、「山の神さん」は大事にされたのだろう。それに、炭焼きとか植林とかの山で働く人たちには守り神にもなったに違いない。
昨年は、こうした直来(なおらい)があったものだが、今年からは、それもなくなった。電気やガス、石油、灯油などで、山の資源はいらなくなった。山の神さんに対する信仰心もかすんでしまっているような昨今である。
家に戻ると、こんなハガキが届いていた。高齢者講習か・・。眼科の診察も受けておかねば・・・。
「宅配便でぇぇす・・・」と、ケーキが届いた。先日に送った「小坂小誌」のお礼らしい。奥方といただきます。
今日の掲示板はこれ。「今日は私に残された人生の最初の日である」というアメリカの格言から。映画「アメリカン・ビューティー」でも使われた言葉で、米国の薬物中毒患者救済機関の設立者、チャールズ・ディードリッヒの言葉だという。人は常に死に向かって生きていて、人生の残りは減っていく一方で増えることは決してない。それでも、その残りいくばくか、自分自身には知る術のない残りの時間だったとしても、今日という日がそのスタートなのだ。どれくらいあるのかわからないと嘆くよりも、今日からすべてが新しい始まるんだと思える言葉である。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。