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Channel: まほろば自然博物館
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晴れて見る十月桜の背の荷物

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は18.5度から26.0度、湿度は88%から54%、風は1mから2mの北北西の風が少しばかり。明日の14日のさぬき市地方は、引き続き、高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。

 

 106/59/79 36.2c-97% 63.2Kg 20.2c-68%-1014hPa 昨夜はほぼ1時間くらいおきにトイレに起きた。でも、尿の量が少ないのか体重が増えるばかり。だから、いつもの寝不足気味。

 

 最近は涼しくなったので、水分はそんなに飲んでいないはず。またもや尿道が詰まり始めているんだろうか。それにしてもおなかの張りは全くない。

 

 奥方が通勤に使っているアトレーの車検がもうすぐ切れる。そこで、今度は同じくダイハツの「タント」に決めた。色はシルバーにした。で、奥方は新しい機能の車には乗れないというので、私のムーブで通勤し、私がタントに乗ることにした。”たんと”走れることだろう。

 

 で、車屋さんに契約書を届けてきた。車の交換はこの月末近くになりそうだという。

 

 で、その足で先週だかに診てもらった皮膚科に行ってきた。蕁麻疹が出るのは、何のアレルギーによるものかの血液検査してもらったのだ。

 

 その結果である。やはり「牛肉」「豚肉」「ミルク」があかんらしい。それに、「犬」と「ネコ」だ。これは大嫌いだ。犬や猫をみただけで鳥肌が立つ。しかしのかかし、バナナやミルクがあかんとは・・。そんなに気にもしていなかったのだが。ここにはないが、やはり「カレイのタマゴ」はあかんらしい。救急搬送されたのがいずれも「カレイの煮物の”たまご”」と「肉うどんの牛肉」と「生ハム」だった。生ハムは「豚肉」だったのか。豚肉だったとは、”とん”と気づかなかった。

 

 それはそれとして、「エンディングノート」、「闘病記」に続く「自由研究」としての「白衣史」だが、その原稿がない。パソコンを入れ替えたり並べ替えたりしたもので、どこのフォルダーに、何という名前で保存したかの記憶がまるでない。この論文のタイトルは、”「なぜ、四国遍路は白い服を着るのか」に関する社会民俗学的一考察”という長い題名であるが、そんな名前では保存できない。何か短い言葉で保存したはずである。

 

 これをスキャナーで読み込み直そうとすると、どうにもスキャナーの調子が悪い。あれこれと機器を入れ換えても調子は戻らない。私の注文を機器は”聞き”いれない。かといって、これを手入力では無理というもの。そういうことで、これまた波瀾万丈の幕開けけとなった。讃岐弁では、「じょんならん」という。

 

 今日のお昼もダイエット食。十数年間だったかに、ワイドショーで「心太(ところてん)を食べれば痩せられる」と、みのもんたが紹介するという話題が出てから、数年間はところてんが店頭から消えてしまったことがあった。そこで、私は徳島の山間の町のスーパーでところてんを買って食べた何年かがあった。法事の席にも「ところてん」持参だった。

 

 我が家のホテイアオイはいつまでも花をつけている。

 

 そろそろとイチョウの紅葉の時期かなぁと大窪寺を目指す途中の、旧五名(ごみょう)小学校跡地に残るイチョウの木。少しばかり黄色くなっている。

 

 途中の阿波と讃岐の県境の「境目(さかいめ)」のイチョウはまだまだ緑のママ。この大窪寺の大銀杏も紅葉はまだまだだ。そこから下った、「旧多和小学校跡地」のイチョウも緑のまんまだった。今年はまだまだ温かいのだろうと思う。

 

 今日もお遍路さんはちらほら・・・。こういう大窪寺も珍しい。それも山仲間の山越え歩き遍路らしい。”やましい”ことのないすがすがしそうなお遍路さんだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「悟ってみれば 仏も下駄も同じ木の片である」という一休さんの言葉らしい。別に悟らなくても、仏像も下駄も同じようなただの木片に過ぎない。大事なことは、「仏像も下駄と一緒か」ではなくて、「下駄も仏像と同じように大切にしていこう」ということらしい。仏像ばかり崇めていて、普段お世話になっている下駄をないがしろにしてはいけないと教えてくれているように思うのだ。物事の本質を見ていくと、ハッとする気付きがあるもの。四つ葉のクローバーを一生懸命探すあまり、近くにある三つ葉のクローバーを踏みにじっていないだろうか。自分が誰かに褒められたとき、褒められなかった人の気持ちを考えた発言や行動をしていただろうか。勝負に勝って喜びを爆発させるのも良いけど、その裏には負けた相手が涙を流していることを忘れてはいないだろうか。遠くの国の貧しい人の支援もしたいけれど、そのまえに身近な家族を幸せにしようと努めているか。物事の本質は、至ってシンプルなこと。「我」をなくしたところに「本質」が隠れている。自分自身で「我」ばかりを見ていると、「本質」は見えてはこない。仏像は人にあがめられるが、下駄は人の足に敷かれる。けれども、元を正せば、どちらもただの木片に過ぎない。物事の本質を捉えれば、つまらない事にこだわらずに生きてゆくことも可能だ。そうすれば、本当に大事なことが見えてくる。少しずつでも、つまらないこだわりは、捨ててゆきたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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