さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で概ね曇り、雨の降っている所があった。夕方からは、高気圧に覆われて晴れてきた。気温は5.5度から13.9度、湿度は94%から52%、風は1mから7mの西の風が一時は強かった。明日の17日のさぬき市地方は、湿った空気や寒気の影響で昼過ぎまで曇るが、夕方からは高気圧に覆われて晴れる見込み。
107/68/79 36.4c-96% 62.6Kg 22.1c-38%-1016hPa 体調に変化はない。
昨年の今日は香川医大付属病院のCCU(心臓病患者のみを収容し治療する施設(cardiac(またはcoronary) care unit。略称CCU)にいた。病状は好転して元気になった頃。
でも、まだ自由に歩ける段階にはなかった。この頃から肺炎だ肺炎だ、新型の肺炎だとにわかにニュースになりだした頃。まだ、病院内でもマスクなしでも自由に移動することも可能だった。
今日も天気がいいからと旧へんろ道探しの続きをやってみた。この頃から雨が降り出してきた。昔の前山村と奥山村の国ざかいの「額峠」に、この65丁石がある。現在のさぬき市前山とさぬき市多和の境目である。
ここから川沿いに山肌に沿ってへんろ道が続いていた。お遍路さんが踏み固めてできた道である。
今は護岸工事ができているのだが、昔は岩肌にしがみつくようにして歩いたものらしい。これが65丁石から63丁石まで続いている。そこからは現在の国道に着いたり離れたりしながら50丁石まで歩いたもの。それから先はわからない。
話はずっと飛んで、38丁石から36丁石までも定かにはわからないが、この山肌のくぼんだところが昔の遍路道。旧国道の開削工事でへんろ道は削り取られてしまっている。
36丁石から35丁石までは、このような山肌を登っていく。この右手も旧国道の開削工事で大きく削り取られている。
ここは新国道の開削工事で山が削り取られている。その先に34丁石がある。
で、34丁、33丁ときて、ここに出てくる。32丁、31丁は不明。で、昨日の30丁石に繋がってくる。
今日の調査区館は赤の区間で、65丁石の額峠から30丁石のへんろ休憩所までの約3.8Km。そのうち、全く不明区間が緑色の50丁石の旧多和小学校前から38丁石の新国道377号線の地蔵堂前まで。このあたりは遍路道の痕跡すら残っていない。おそらく川沿いに歩いたものだと思われるが痕跡がない。
それを今日も図面に落としてみた。この50丁から右側がわからない。
今日は雨の中を歩いたもので身体が冷えた。そこであたたかい鍋焼きうどんにしてみた。
今日の掲示板はこれ。「この花散らすも雨と風 この花咲かすも雨と風 雨と風とがなかりせば 花も散るまじ咲きもせじ」という与論小唄の歌詞らしい。雨と風によって、無残にも花は散るけれど、この雨と風がなかったら、花が開くのを見ることもないのである。花にしてみれば、なんと無情の雨か、憎い風かと怨(うら)みもしようが、またそのおかげで多くの人々から愛(め)でられ、誉(ほ)めそやされる、花として誇らしく咲くことができるのではないか、と受け取り方の妙味を唄った歌であろうか。ある人が吉野山にお花見に出かけた。あまりの花の見事さについつい見とれて道に迷い、途方に暮れて一夜の宿を求めてさまよううち、一軒の民家を見つけた。これ幸いと戸を叩くと、家の主人が細めに戸を開けて、「お気の毒ですが、お泊めするわけにはまいりません。前に旅人を泊めたところ、夜中にその旅人が強盗に居直って大変な被害を受けました。それ以来、この村では、どなたであれ一切他人を泊めないことに申し合わせをしました。まことにお気の毒ではございますが、外の軒下なら結構ですからお使いください。夜露ぐらいはしのげるでしょう。莚(むしろ)なら裏にございます」と、中に入れてくれない。夜は更けてくる。花冷えで四月とはいえ夜は寒い。その上ひもじさも加わって、何とも情けない気持ちで軒下でむしろをかぶったが、どうしても寝つかれない。このまま一晩過ごすしかあるまいと、ふと空を見上げると、折しも月がおぼろに夜桜の上にかかって何ともいえぬ風情である。この感動を忘れぬうちにと一首書きとどめた。「宿かさぬ 人のつらさを情けにて おぼろ月夜の花の下臥(したぶし)」(もし家の中へ入れていただいて一夜の宿りをすれば、このおぼろ月夜の花の宴には会うことができなかったであろう。今の今まで、宿を貸してくれない人の心の薄情さを怨んでいたが、そのお蔭でこんな素晴らしい月と花との出逢いがあったのだと、むしろ家の主に感謝の気持ちで一杯になったのだよ)との、いわば転迷開悟の境地であろうか。何事によらず、マイナス指向は人を絶望の淵に誘(いざな)うが、プラス指向で前向きに、善知識に捉(とら)えていくならば、人は希望の丘に立つことができるのだという教えであろうか。花の命は短く「三日見ぬ間の桜かな」で愛惜(あいせき)のうちに花は散っていく。いや愛惜というのも人間のはからいで、花は無心に咲いて無心に散っていく。無始無終のいのちの中で、花は「永遠の今」を無心に精一杯燃焼させている。一瞬、一瞬に全生命を生き抜いている。咲くべくして咲き、散るべくして散り、しかも次代を背負うタネを結ぶべくして結んでいく。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。