さぬき市地方は、寒気や湿った空気の影響で曇っていたが、次第に高気圧に覆われてきて晴れていた。気温は0度から4.9度、湿度は74%から60%、風は8mから3mの西の風が一時は強かった。明日の19日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。
104/85/85 36.3c-98% 62.6Kg 17.6c-40%-1012hPa 体調に変化はない。肩こりはずいぶんと楽になってきた。
遍路研究や遍路に関する論文などに使われている写真である。この写真は岩波写真文庫の176集目という小冊子からである。これを探し回って、ようやくに見つけて購入した。
こういう文庫本サイズのパンフレットみたいな64頁の薄い本である。あれ、今日は二十四節気の「雨水」ではないか。いや、それはさておき、こんな本が2,000円もしたのか・・と裏を見ると100円と書いてある。1956年発行の100円というと、当時はそれなりにお値段したんだろうか。
1956年と言えば昭和31年、戦後間もなくと言う時期で、私は8歳の頃か。その頃は春と秋のお彼岸の中日には「市が立つ」というので親戚兄弟うちそろって出掛けたものだが、この松の木の記憶はない。
その頃の大窪寺らしいが、山寺らしい素朴な風景に見える。65年前の大窪寺は、こんな景色だったのかとしみじみと眺めていた。「本堂前の宝杖堂(おつえどう)は、大師が行脚の錫杖を納めたところといい、結願したお遍路さんも金剛杖を納めるのが建前だが、再び順行する心あらば記念に持ち帰るも可」とあるが、そういうお堂があったのだろうか。
これは私の10年日記だが、2013年の今日、2月18日は母のお通夜だった。1月の下旬には状態が悪化し、お葬式の準備に入っていた。そんな中、京都の本山での布教使研修会に参加し、帰宅すると弟と交代して我が家の片付けをしてお通夜になった。その夜が大雪になった。その翌年も布教研修会から戻ると一周忌法要になり、その翌年も同様に研修から戻って三回忌を勤めた。
当時、ほとんどの家が葬儀会館などでのお葬式になっていたが、母の遺言で我が家から送り出すことにした。そこへ持ってきての大雪に一同、大慌てになったことだった。
ちなみに、若い頃の母である。
さて、である。このトナープリンターであるが、印刷面に白や黒の筋が入るからと同型機種を探して買い求めたのだが、今度はそちらが紙詰まりが多く発生する。するとどうだ、「せらい子」みたいに、筋も印刷斑もなく印刷が可能になったではないか。※せらい子= 子のない人がもらい子をした後に生まれた実子。〈壺井栄〉一「もらい子をすればせらい子が生れるという」.
で、発行部数10部のうちの半分があっという間にできあがってしまった。
残りは明日にでも片付けてしまえる。それに納期は来月2日だ。まだ、時間は十分にある。
こういう両面モノクロ印刷である。カラーにしたいのだが、インクジェットのインク代がばかにならない。
今日の掲示板はこれ。「こんなはずではなかった と言って終わるか これでよかったと言える人生にするか それが仏法」というもの。いつもの赤松先生のお寺にあった言葉から。人は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつくのである。それまでの自分は、家族を守るため、お金を貯めるために生きてきて、「幸せ」 という夢想を埋めるためのものでしかなかった。自分で生きていなかったということに気がつくのである。「こんなはずではなかった・・・」その思いは、「自分だけは大丈夫」だと思い込んでいるために起こるのではないのか。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教では「無常」と 教えてくれているのである。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。