ドーナツのドがつく田舎だから、二階の窓は網戸だけ。だから朝方は肌寒い・・・。最近は「トウキョウトッキョキョキャキョク・・・」の声にカナカナゼミの声が混じって賑やかな朝だ。
朝の散歩が終わったら、高松の県立図書館に借りていた本を返却に出かけた。昨日は休館日だったので早々に出かけたのだが、駐車場には早くからあふれるほどの車が・・・。
このアキニレの庭にも降るような蝉時雨・・・。「ママ・・あの音なあぁに?」と、前の女の子。最近の子はセミの声も知らないのかねぇ・・・と言いつつ、この蝉の声は何セミって言うんだったか・・・と、セミの名前が思い出せない私になった。
普段には静かな図書館も夏休み時には利用者が多い。それも子供連れの家族連れが。夏休みには読書感想文と自由研究があるからかなぁと思ってみたり。それにお年寄りも節電対策のためか図書館避暑で雑誌や新聞を開いたり閉じたり・・・。
私はアカデミック(?)にこういう本を借りた・・・。牟礼町史ほか・・。こういう所に来ると、なぜか、トイレが近くなって落ち着かないのは不思議なことだ・・。
で、図書館近くにある「たも屋・林店」に寄ってみた。ここも有名なセルフのお店の一つだが、真ん前にある香川大学工学部が夏休みのためにさすがに人影はない・・・。
ここでは「中」というのは1.5玉になっている。だから大になると2玉ってことになるのか・・。今日は、涼しく・・・「ぶかっけ小の冷や」を注文した。それに野菜の掻き揚げ天(100円)で、350円。
トッピングはフリーで、大根おろし、ショウガ、天かす太い、天かす細、わかめ、ネギ、レモン、ゴマ、ワサビ・・・。これらを好きなだけ入れてもいいらしいが、トッピングばかり多くてもねぇ。
ご覧の通り・・・朝の10時過ぎでは誰もいない・・・。貸し切り状態のうどん屋さん。ゆっくりとコシのあるおうどんをいただいたのであった。
その後に向かったのが高松市牟礼町大町にある、とある廃病院、通称・・「牟礼病院」こと「鶴身病院跡」。実はこの表玄関は「旧村役場」ではないのか・・・という疑問が残っているためだ。そのために、「牟礼町史」を借りてきたのである。
『牟礼町史』によると、この病院は「鶴身藤太」という人物が開設した私設医院で、彼はこの村に明治13年に生まれ、第六高等学校を経て九州帝国大学医学部へ進学。外科を志し、第一期卒業生として大学を巣立った後、当時の朝鮮、釜山病院に院長として赴任した。そして大正元年帰郷し、現地にて開業した。 面積1202.28?、建て面積304.99?、総工費にして一万円であったといい(現代の金額で約4500万)、これが今に残る通称牟礼病院である
琴電塩屋駅ができたのはそれよりだいぶ後の事だが、当時は医師の数も少なく、当初から周辺の村々よりも患者が来訪し、庵治や屋島、志度方面にも鶴身氏は人力車で往診したという。彼は医者のみならず村会議員や校医、漁業組合長などもも務めた。昭和21年8月15日、67歳で死去した。
戦後の鶴身医院は、初代院長の鶴身藤太氏の死去により、長男鶴身孝雄が帰郷、跡を継いだ。二代目院長は、明治38年(1905) 生まれで、第六高等学校を経て岡山医科大学を卒業、同付属病院石山外科(現・第一外科)医局長を務め、中国海南島同仁会病院副院長の時、終戦となり、21年 (1946) 4月帰国、町外で開業準備中であった。父同様、人徳円満で、医療以外の面でもよく耳を傾け、推されて村議会議員、教育委員として町政にも尽力したが、昭和48年(1973)1月、往診中不慮の事故で死亡、67歳だった。
孝雄氏の長男孝文氏は、昭和24年(1949) 生まれ。岡山大学医学部卒業後、同付属病院第一外科を経て現在、大阪の病院で外科医長として勤務しているが、「鶴身さん」といって親しまれた病院も、今は閉院している。(牟礼町史・牟礼町誌ほか)おそらく、昭和48年1月に院長不在となってそのまま廃院になったものと思われる。
ところが肝心の「旧村役場」の疑念は晴れずじまいだった。大町村役場、牟礼村役場は大正4年ほかの建設になっており、それまでは戸長の自宅を村役場にしていたらしく、そのあたりの資料が確認できなかった。
今日の掲示板はこれ。私たちのふとしたことば一つでけんかにもなり仲直りにもなり、戦争にもなり、平和にもなる。ふと漏らしたことばひとつに、そのとき、そのときの私の一つのこころがこもっているのである。それだけにいつも清らかなこころを持ち続けていたいものである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。