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Channel: まほろば自然博物館
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薄曇る庭にきりりとチューリップ

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 29日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていた。気温は8.5度から13.5度、湿度は62%から88%、風は3mから1mの東の風が少しばかり。明日の30日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れるけれど、夕方からは気圧の谷や湿った空気の影響で曇るらしい。

 

 収縮期90mmhg、拡張期43mmhg、脈拍78bpm、体温36.6c/酸素濃度97%/体重64.8Kg 室内気温20.1c/室内湿度41.7%/気圧1030hPa 体調に変化はない。今日の日の出は05:56分、日の入りは18:22分 月齢は26.4の中潮。

 

 昨年の剪定作業が功を奏したのか、今年のハクモクレンは見事なほどに花をつけて咲き誇っている。奥方は自慢そうに吹聴するが、その実は何もやっていないのだ。ほとんどが、このハクモクレンが自分で花を咲かせているだけのことだと、今朝の「ラジオ深夜便」で、甲南大学特別客員教授の「田中脩」先生が話していた。

 

 さて、昨年の夏から、東かがわ市の歴史研究家の「篤秀先生」から頂いている宿題の「遍路墓探訪」だが、私の体調不良やらなんやらで、手つかず状態で残ったまんま。どうにか動けるようになったので、来週の半ばから弟と二人で調査に出かけることになった。

 

 よく、「そんなもん、調べてどうするん?」と言われるが、考えてみれば、どうするのかはわからない。「じゃぁ、おじさんは、なんで、植木いじりなんかをするの?」と聞いてみたくなる。「じゃぁ、おじさんは、なんでタバコなんぞ吸っているの?」と尋ねたくなる。それぞれの時間の過ごし方はさまざまで、深い意味がなければやらなくてもいいようなものかも知れない。山登りだって似たようなものかも知れない。

 

 私は歴史学者ではない。考古学者でもない。あえて肩書きをつけるとするならば「郷土史家」あるいは「郷土民俗学者」になるかも知れない。大きく言えば「四国遍路研究家」、「四国遍路民俗研究家」になるかも知れない。ま、平たく言えば、単なる「観光ガイド」のはしくれである。

 

 そうこうしていたらば、「ねぇ~ねぇ~、ビデオちゃん~。久々におうどんに行かない??」と奥方の声。なんでか、今日と明日がお休みの日らしい。

 

 「ははぁん・・・、無料のおうどん狙いだな」と思ったが、言葉にしたら叱られる。「そ、そうだねぇ・・・」と、黙って付いていくことにした。もちろん、「運転手は僕だ、お客は奥だ・・・」。

 

 もう、時期的に「しっぽくうどん」はおしまいになっていて、今日は「玉子かけおうどん」ということで、「めんたい釜玉うどん」490円だかに、レンコンの天ぷら(100円)をチョイスした。会計は奥方である。で、私が無料のうどん玉(約3玉入り)を頂戴し、続いて奥方もうどん玉(約3玉入り)をそっといただいて席に着いた。

 

 ご存じだろうが、「釜玉うどん」というのは、釜からゆであがったばかりのアツアツのおうどんに生玉子を落としたもの。そのおまけに「明太子」でアクセント、味付けは特製のお醤油ダシである。ネギや天かす、ワカメ、おろし生姜などはフリートッピング。これぞ究極の「玉子かけおうどん」である。

 

 おうどんをご馳走になった御礼に、「マイ・桜ガーデン」の県営ダム公園に案内した。昨日も見たけれど、さらに今日は「極満開状態」。一昔前には、ここで盛大に町営の花見の宴があって、宝探しゲームやらのど自慢大会なんぞも行われたのだが、飲酒運転がやかましく言われるようになってからはバタリと花見が消えた。今は人っ子一人としてやってはこない。

 

 奥方は、桜の若木が育っていないか、挿し木になるような枝はないかと、そういう目でばかり植物を見ている。変わった草がないか、珍しい花がないか・・・とあたりを歩き回っている。

 

 私も若い頃には、「花見はやったかい・」とか「花見はもう済んだんな」というのが、この時期の挨拶だったけれど、もう、桜の花が珍しい年でもなくなった。

 

 今日の大サービス。今日の掲示板はこれ。「散ると見たのは錯覚であって、桜は大地に還るのであった。」 という武内洞達先生の言葉から。まさしく桜は大地に還るのであって、散る散らないは私たちの都合ではないか。似たようなお言葉に、「仰ぐ者には、月はあるが、仰がない者には月はない」という語がある。阿弥陀如来は、信ずる者にはあるが、信じない者には「ない」のである。阿弥陀には隔てる心はなけれども、仰ぐか、仰がないか、である。信ずるか、信じないかである。 「散る時が 浮かぶ時なり 蓮の花」も先生のおことばである。

 

 今日の掲示板はこれも大サービス。「散れば咲き 咲けばまた散る春ごとの 花のすがたは如来常住」という一休さんの歌である。春に桜の花が咲くと、人々は花の美しさを愛でて宴を張り、しばしの時を楽しむ。また花の散る風情を人の死に例えていたりする。しかしのかかし、それは花という表面に現れた現象であって花を咲かせる草木に変わりはない。散ればまた次の年には花を咲かせるだけのことである。そのような草木のように、人にもそれぞれ、開花する仏性は常に宿されている。人間が本当に「生きて」活動するということ、つまり「生きているということ」が素地にならない毎日は、ただ活動して終わりではないか、ということだというのである。言われてみれば、人より良いものを手に入れ、人より良いものを食べたいという欲求生活は、ただ活動をこなし、活動の充足を願うばかりのように見える。そして多くの宗教はこの活動を満たすことだけを応援しているかのように見えている。起きていても、寝ていても、私たちは「生きている」という素地の上にいることを忘れてはならない。そうして「散れば咲き、咲けばまた散る花」のように、かわるがわる願いを受け継ぎ、この世を生きてきたのである。それぞれの花(ひとりひとり)の願いはもちろん大切なのだが、その花を支えるより大きな願い、すなわち誰しもが等しく支えられている如来の本願の力に思いを寄せることが、真に生活を豊かなものとしてくれるのではないだろうか。

 

 で、本当の今日の掲示板はこれ。「骸骨の上を装うて花見かな」という、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。桜前線の北上と共にあちらこちらで 花を肴に賑やかな宴が催される頃である。この歌は上島鬼貫(うえしま おにつら)という、松尾芭蕉とほぼ同時代の俳人のもので、大阪の伊丹にこの句碑が建っている。若い娘さんたちにも結構な人気だそうで、どこか心の底で頷ける共感があるのだろう。骸骨のうえを装って、つまり、きれいにお化粧し、美しい衣装で着飾った娘さん、その娘さんをレントゲン光線で映してみると、 ごつごつした骸骨が見える。若々しい女性が美しい装いをこらして、お花見としゃれこんで浮かれているが、いつかは骸骨だけになる。 滅びの時はやがて来るんだぞと言っているわけだ。目にみえる美しい、好ましい姿の中に、変化し、崩れ、壊れ行く事実があり、その骸骨という、みにくく好まざる事実を見通してみる智慧、そんな智慧を持つことが大事なことだと考えさせらたことであった。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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