Quantcast
Channel: まほろば自然博物館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

早い春 遅い春あり 風の中

$
0
0

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、寒気の影響で山地を中心に雲が広がり、雪や雨が一時降ってきた。気温は2度から6度、湿度は75%から58%。風は5mから7mの西北西の風が強くて冷たい一日になった。明日の11日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

  こういう天候の良い日には散歩だな・・・ということで散歩に出かけたが、風が強くて冷たいので諦めた。こんな日に無理して散歩をして肺炎にでもなったら大変だな・・・ということで。昨年の今頃は、肺炎になって一週間ほど入院していたことだったし・・・。

 

 ということで、ここにやってきた。東かがわ市丹生(にぶ)という所にある「小砂(こざれ)説教所跡」。この二十七段余の石段を登り切ると広場に出る。ここが「小砂(こざれ)説教所跡」で、この地区の真宗の道場であり、昔の集会所であった。ここが、今では「正真講本部」となっていて、庄松同行の情報発信源ともなっている。

 

  石段を登り切った左手にあるのが鐘楼。その先に墓石がいくつかあるが、その中に一段と高くなって花が供えられている石碑が「庄松同行の墓」で、「釈正真信士墓」と刻まれている。没年は明治四年三月四日と刻まれており、他面には、大同行 俗称 谷口庄松 丹生村 と刻まれている。と言うことは、今年が142周年ということになるのか・・・。

 

 五十二 「石に下には居らぬ」 この一条は、石田村の市蔵同行が見舞いに来て云えるには、「同行が死んだら墓を建ててあげましょ」と云えば、庄松、「おれは石の下には居らぬぞ。」と云われた。絶対の慈悲に浴して、大信を授かった者には、墓も卒塔婆もいらぬ。追善・供養・施餓鬼供養一切無用である。追善供養は悪道に堕ちた者へする仕業である。庄松は極楽往生は治定の身であるからである。

 

  ”親鸞聖人は、自分のなきがらは加茂川の魚に与えよ”と仰せられたではないか。「庄松は墓石の下にはいないぞ」である。しかし、庄松の墓があるのは、御同行による報恩謝徳のはからいである。御恩報謝の念仏と同じである。決して追善供養のためではない。

 

 これが、小砂説教所の内部。やはり、中央にあるのは「阿弥陀さま」。戸帖の奥には正面に阿弥陀立像や庄松同行の絵像や人形、掛け軸などが安置されている。

 

 しかしのかかし、あまりにも風がきつくて寒くてたまらない。それで我が家へと引き返した。こんな日は我が家で暖かくしておくほうが得策だとばかりに・・・。

 

 で、我が家に戻ると風はやんでおだやかになって、空はすっかりと晴れ上がってきた。それでは・・・と、奥方のふとんをベランダに干した。昨日は私の布団を干したのだが、「私の布団はなぜ干さないの・・・」と云われたものだから・・・。

 

 ということでお布団を干したのだけれど、二時過ぎになると、急に空が暗くなり、遠くの山が白くなってきた・・・。これは大変だぞ・・・と、布団を取り込むと同時にはらり、はらりと雪が降り始めてきた。一階のベランダには洗濯物が・・・・。

 

 一階に駆け下りて、洗濯物を取り込んだら・・・・。雪はあっという間に上がってしまって。太陽が差し込んできて空が明るくなってきた・・・。春先の天候不順とは云うけれど・・・。

 

 その後は、例の「英国士官レキ研究報告会」のリハーサル。今日はサービス精神いっぱいでの講演になったら、軽く1時間半を超えていた。ま、報告会の時間は2時間を予定しているもので、余裕はあると思うのだけれど・・・。

 

 ただ、13時30分から15時30分という予定は、島外からお越しの方は、丸亀発11時10分の高速艇で、11時32分着。ただし、島には食堂がないので昼食の準備はお願いしなければならない。で、帰りは16時40分の高速艇ということで丸亀港着は17時過ぎというのが少し気にかかる。

 

 ただ、十分な知識的なおみやげはしっかりと用意しておきますので、どうぞ、お越しくださいませませ・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。朝の「小砂説教所跡」にあったお皿に書かれていたことばで、「庄松いわく また生えにゃよいがのう 角(つの)があるまんまと聞こえなんだか」というもの。京都から名僧と評判の御使僧が来られたので、庄松さんもお参りしていた。すると、お説教を聞いていた隣の人が、涙を流して「いやぁ、今日のお説教はありがたかった。おかげで日頃の邪見の角が折れたわいなぁ・・」とつぶやきながらお念仏するのを、そばで聞いていた庄松さんの一言。「また、生えにゃよいがのぉ。わしは角があるままのお助けと聞いたがのぁ」と・・。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という他力の大悲におまかせしてみると、悪業煩悩の角があるままお助けに預かっている悦びがある。凡夫のままに救われていく世界を庄松さんは感得されていたのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

Trending Articles