さぬき市地方は寒気の影響で雲が広がり、雨の降っている所があった。気温は6度から12度、湿度は66%から50%、風は西南西の風が吹いたりやんだり・・。明日の15日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。何の予定もないのだけれど。
ということで、私のブログが開設以来3,500日を迎えた。開設したのは2005年の4月10日だから、9年7ヶ月あまりということになる。この間に1日のお休みもない。よく続いたものだと思う。でも、最近は少しばかりお休みしたいというのが本音のところ。
左目は全く見えなくなって、頼りの右目も調子が悪い。本も根気良くは読めないし、パソコンに向かうのも面倒になってきた。オペまではまだ27日もあるし、術前検査まで一週間。ものすごくストレスが溜まる。
「最近、おさるが多くなって、昨日もダイコンを3本も抜かれたのよ」と、奥方はお怒りだが、そんなものにクレームをつけても仕方がない。向こうは人間さまの生活なんぞあずかり知らぬことなんだ。このサルは口に何かをくわえている。手前の黒い紐状のものは単なる枯れた木の枝。おへびさまはもう、冬眠に入って居る。
更に進むと、いるわいるわ・・・。10数匹から20数匹のサルの軍団がぶつがり稽古なのか戦いなのか、ギャァギャァと賑やかなこと、騒がしいこと。縄張り争いなのか・・・。
屋根の上でもいがみ合いやらにらみ合いをやっている。もう、すっかりと「サルの集落」。サルもすばしこくて、カメラを向けたら逃げられる。カメラを下げたら現れる。
このあたり、番犬がいるのだけれど、鎖に繋がれた犬など怖くはないらしい。犬の眼前をゆったりと歩くからたまらない。サルの闘争と犬の吠え立てる声でやかましい・・・。
こうした捕獲用のケージが幾つも幾つも置かれているのだが、警戒心が強いのか、学習済みなのか、イノシシもタヌキもサルも捕まらない。
昨日今日と肌寒い1日になったが、そういう時期になったのか、喪中はがきが届くようになった。「うちは神道ですから・・」というてた人から「兄が天国に旅立ちました」というはがきが。神道でも「天国」に行くのかな?それにしても、みなさん、まじめにそういうはがきを送ってくる。身近な人の死は辛く哀しいものなんだろうけれど。
車でおでかけをしたいのだが、恐ろしいし、かといって、こうして引きこもっていると、おつむがおかしくなってしまいそう。まさか、昼間からは寝てもいられない。テレビも騒がしいばかりでちっともおもしろくないし、ラジオもにぎやかなばかり。
今日の掲示板はこれ。「掃けば散り 払えばまたもふり積もる 人の心も庭の落ち葉も」というもの。 塵やほこりといった目に見えない小さなものは、知らない間に溜まっているもの。しかし、落ち葉のように目に見えるものでも知らない間に溜まっている。それを、払い除いても、すぐに塵もほこりも落ち葉も積ってしまう。だからこそ、それを掃き、払うのである。
同じように、私たちの心にも、知らない間に塵が溜まっている。この歌を読むと、お釈迦様の弟子の一人、周利槃特(しゅりはんどく)の逸話が思い起こされる。このお弟子は、自分の名前も覚えることもできず、その愚かさに呆れられ、実の兄からも、周りの人からも見捨てられ、孤独でみじめな生活送っていたのだが、その弟の姿を見かねて、すでに帰依していた兄が仏教教団の入団を勧め、自分の受けた教えを四行の偈文にして、覚えるように言いつけたが、周利槃特は努力の甲斐なくその偈文も覚えることができなかった。とうとうその愚かさに兄も激怒し、周利槃特を学び舎から追い出してしまったのである。途方に暮れ、学び舎を出ていく周利槃特の姿をご覧になったお釈迦様は、その姿をお見せになり、周利槃特に一本のほうきを手渡し、「掃除をしながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えよ」と教えられたのである。何年もその教えを守り、繰り返し続けた周利槃特に、ある時「塵とは何か、垢とは何か、払い除くとはどういうことなのか」という疑問が湧いてきて、やがて自分の心の塵、垢を自覚し、それを離れ、捨てきるまでになり、ついにさとりを開いたという話である。常に、自分の心の塵、垢に気付き、そしてそれを払い、心をひるがえして教えを聞きなおしてゆく姿勢を現代に生きる私たちに先立って教えて下さっているのではないかと思うことである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。