京都市地方は高気圧に覆われて腫れていた。気温は18度から28度、湿度は87%から64%、風は1mから3mの北北西の風が少しばかり。明日の5日は気圧の谷で雨になるらしい。
せっかく、京都にいるのだからと、眠たい眼をこすりながら、お隣にある本願寺さんの「おあさじ(お朝事)」にお参りしてきた。新門さんというか新しい御門主さまは出張だかでお見えになられなかった。
それにしても、6時からの「おあさじ」にお参りするには早起きをしないといけない。みなさん、懸命だなぁと思った。私は久々に飲んだものだから、若干、寝不足気味のやや頭痛気味・・・。申し訳ないのだが、単にお邪魔している・・というだけ。
天気が良くなってきたので、そのあたりを散歩して気分を入れ替えておく・・・。最近、ここでも落書きが見つかったとかで、警備の方も増えているし、「ドローン」とかは飛行禁止になっている。時代だなぁと感じさせる光景だった。
こちらは、私どもの「御影堂」。親鸞聖人さまのお木像が安置されているお堂である。
私どもの「興正寺」でも、阿弥陀堂で「讃仏偈」のお勤めがあり、その後、御影堂で「お正信偈」のお勤めがある。私どもは「ご晨朝(じんじょう)」と呼んでいる。
朝御飯である。ご飯とお味噌汁とお茶と。あと、納豆・海苔が定番。あと、フリーチョイスで、昆布・梅干し・おつけもの。若者(比較的若者も含む)は、ご飯とおつゆのお代わりをするが、年配者は、これだけで充分としている。
三日目の午前中は「副講」ということで、新任助教による講義が行われる。こういう場合の「座」も自然発生的に決まっている。本人は意識していないのだが、毎年、私の前には「梅園先生」と「大塚先生」がいる。最前列の席も、毎年、同じ方が、あの場所を占めている。不思議と言えば不思議な光景である。
午前中で講義が終わると「閉幡(へいばん)式」が行われる。ま、閉会式である。ここで、レポートの優秀な方には賞状と記念略袈裟が授与される。その後、修了書も授与されて解散になる。12時半過ぎだった。着替えを済ませ、荷物をまとめ、お布団を片付けて宿舎を出る。
で、孫の「なぎちゃん用」のお念珠を買う。前日にメールが送られてきて、その写真をお店の方に見せて、希望する色のお念珠を買った。気に入るかどうかはわからない・・・。
時間が時間で、13時過ぎ。このお安いお店に入っての昼食。
精進落としという訳でもないが、今日は珍しく「うな重」にした。780円だった。ご飯もうなぎも軟らかくて、呑み込むようにして食べた。お冷や(お水)を六杯も飲んだ。辛かった訳ではないが、ま、ビール代わりみたいなものだった。ここには一切、アルコール類は用意していないみたいだった。ま、ビールがなくても気にはならなくなった。
西本願寺さん、東本願寺さんにお邪魔して、ブックセンターだのお買い物センターだのをのぞいたけれど、これという入り用なものが見つからなかった。欲しいものも、必要なものも少なくなったようだ。京都駅前には、このような修学旅行生がどんどんどんどん・・とやって来る。これに交差するように外国人のグループや親子などが歩き回っている。
私の京都のお土産はこれ。おつけものである。本山に来ると、必ず、ここのおつけものである。本山興正寺の前に、ここのお店があるのだが、ここまでお漬け物を背負って帰るのならば、駅で買ったほうが楽ちんではないかということで、ここで買うようになった。横着ばかりが増えてきて困る困る・・・。
今日の掲示板はこれ。「人生この先 何が起こるか分かりません。だからこそ一日一日を大切に、感謝の心で生きたいです。」という、西端春枝さんの言葉から。
[日々真心を込めて生きる] ■西端 昔の人の言葉に「喜ぶ人には勝てない」というのがあります。他人が辛かろう、寂しかろうといっても、いや自分は幸せですという人には誰も勝てないんですね。きょうのテーマは「万事入精」と伺いました。この言葉を聞いて頭に浮かんだのは、仏教の諸行無常という教えです。先ほど嘉納先生もおっしゃったように、人生この先何が起こるか分かりませんが、だからこそ一日一日を大切に、感謝の心で生きていきたいですね。 ■嘉納 それは真心を込めて生きるということね。私も毎日一所懸命、真心を込めて生きています。まだ満足してないの。私の歌はもっと上手になるはずだし、私にできることもまだあるだろうにって。どなたがおっしゃったのか知りませんが、「五十、六十、花ならつぼみ、七十、八十花盛り、九十なってお迎えが来たら百まで待てと追い返せ」という言葉があります。私はもう百歳を超えましたが、まだ見たい、食べたい、聞きたい、歌いたい。欲張りな人間なんです(笑)。 ■西端 私が尊敬している平澤興先生(京都大学元総長)という方もこんなことを書かれています。「六十歳で一応、還暦という人生の関所を過ぎ、七十歳で新しい人生を開き、八十歳でまた第三の人生が始まり、九十歳まで生きないと本当に人生は分からない」こういう言葉に触れると、心の底から元気が湧いてきますね。 [『致知』2014年9月号より引用] じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。