さぬき市地方は梅雨前線の影響で雲が広がり、雨の降っている所があったし、一日中、小雨が降っていた印象であった。気温は21度から24度、風は2mから3mの南南西の風が少しばかり。明日の17日は、湿った空気の影響で雲が広がるし、梅雨前線が北上するため、夜遅くには雨が降る見込みらしい。
この梅雨時になると、テレビもラジオも「梅雨ですからじっとりとしますね」とか、「梅雨ですからジメジメしますね」などと言うけれど、昔の日本家屋じゃなくなって久しいから、そんなに「じっとり感」とか「ジメジメ感」などしなくなっている。ましてや、エアコンだの空気清浄機などが働いていて、梅雨だって爽快な今日この頃なのである・・・。
さて、今日は恒例の火曜日ということで、さぬき市前山にある「前山おへんろ交流サロン」にやってきた。
ここで、今年いっぱい、おへんろさんの納めた「納め札」の調査をやっている。この納め札は、歩き遍路さんが通る遍路道沿いの旧家の屋根裏にあったもの。江戸時代後期から昭和の初めまでの何代もに渡って蓄えられた貴重な遍路資料なのである。
こうした、小ぶりな俵に、とにかくあらゆる紙を詰め込んである。お守りから子どもの書道の練習帳から借用書や会合の資料、掛け軸の切れ端から護符や神札など実にさまざまな紙ゴミの山なのである・・・。
一見、ただの紙くず、ゴミに見えるこれらの紙くずも・・・。
霧吹きで水分を与えてやれば、これ、この通り・・・。中から貴重な「納め札」が出現する。これが、「天明」とか「寛政」とかの、1780年代から1800年代のものだと一同は狂喜乱舞する。「文化・文政」の1800年代から1830年代でも躍り上がって喜ぶ・・・。お遍路という文化が一般に普及したのは江戸時代後期からだとされているからである。
で、今日も黙々と、紙クズの中から宝物を選び出す作業に打ち込んでいる。まずは、「奉納・・・」と書かれた紙クズを見つけること。それが「納め札」である可能性が高いからである。なお、お寺や札所に納められた「納め札」は「お焚き上げ」と称して焼却されてしまうので、記録的には全く残らないし、残してはくれない。
このあたりは、護符・お守りなどが残るばかりだが、まだまだ棄てさせてはもらえない。
発見された「納め札」は、こうしてファイリングされて、「納め札 一枚、手書き、伊予国越智郡、文化三年 どこの誰兵衛・・・」などと記録される。
それを、デジカメで撮影して電子ファイリングされると同時に、
エクセル・シートにそのデーターが記録されていく。今は、そういう作業をやっている。その、PC作業が、私の担当になっている。
で、この暮れから来年にかけて、この納め札展示会を行う予定である。それまで、この地道な作業が続けられる訳である。
さて、今日も会長から「ワードプレス(WordPress)」という、新しいシステム導入についての相談があった。この前に、すこしばかり本を買って勉強をしたのだけれど、チンプンカンプンで概要すらわからない・・・。とにかく、ホームページと電子掲示板と電子メールが一緒くたになったものらしい。
で、帰りに本屋さんで手頃な本を選んで買ってきたのだけれど、戻ってみれば同じ物が本棚に・・・。全く、もったいないことなんだが、仕方が無いものは仕方がない。こういうことって、何度もあることで、本棚に同じ物が並ぶことは珍しくなくなってきた。
雨は激しくなったり、小降りになったりと、一日中の雨になってしまった。
今日の掲示板はこれ。「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」という種田山頭火の言葉から。山頭火の句は何とも淋しい、悲しいという言葉が、実に多いことか。山口県防府の大地主の家に生まれ、父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残した。のちに僧侶となって行乞(ぎょうこつ)の旅を続けることになった山頭火は、白布に巻いた母の位牌をふところに偲ばせて歩き続けた。山頭火の句の底流には悲しい思いがひそんでいたことは案外と知られていない。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。