Quantcast
Channel: まほろば自然博物館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

まどろみを ミンミンゼミに 食べられる

$
0
0

 さぬき市地方は前線の影響で太平洋側を中心に雲が広がり、雨が降るとか言うていたが、雨なんぞは少しも降らなかった。気温は21度から28度とうんと涼しくなった。朝方は肌寒くて長袖のシャツを出したほど。湿度は93%から64%、風は1mから2mの南南西の風が少しばかり。明日の19日は、引き続き、前線や湿った空気の影響で雲が広がり、明け方から朝にかけて雨が降る見込みなのだとか・・・。

  

 恒例の毎週火曜日の「俵札調査」は8月いっぱいはお休み中。だから、今日は香川県立図書館にやってきた。この前に借りていた本の返却期日が「8月18日」になっていたものだから・・・。で、相変わらず、ここのセミは元気に啼いていたが、一時ほどの激しさはなくなっていた。

 

 開館前には50人ほどが並んでいたが、どこに消えたものやら人影はまばらだった。自習室とか自習机前に向かったのかも知れない。

 

 その後、夏休みの資料館巡りに出で、今日は高松市玉藻町にある「香川県立ミュージアム」にやってきた。ここの第一展示室では、「語り継ぐ戦争の記憶展」をやっている。

 

 これは直島に生まれた17歳の少年が一式陸攻に電信兵として勤務していた時の飛行服である。特攻寸前に終戦となって出撃することはなかったという人が今も大切に保存しているものだという。横の布袋の中には、電信用の「電鍵」や「送受信用紙」が入っていた。

 

 これは、三重高等農林学校に通っていた香川県出身者の卒業証書である。この学生は、戦局の長期化・悪化によって在学者の徴兵猶予がなくなったため、「仮」の卒業証書をもらって出征し、その後戦死した。 学生生活を打ち切られ、学徒出陣した多くの若者の命が失われた事実について考えさせられる。

   

 ここでは、出征してゆく若者を送り出すための赤タスキやのぼり、国旗、千人針などが展示をされている。

 

  これは、昭和18年5月高松城跡の桜の馬場で撮影された写真である。戦争の長期化とともに、武器弾薬の製造に使用するため、香川県内の学校や寺社、公園などから銅像が約70体集められ、壮行式が行われた時のもの。5月30日付の『香川日日新聞』には、銅像が「前線に総進軍」すると記され、出征していく兵士と同じように送り出されていた様子がうかがえる。

 

 この中に、西郷吉之助と親交のあった月照と信海の二人の銅像も入っている。。月照は、文化10年に吉原村下所に生まれ、10歳で牛額寺の蔵海(ぞうかい)に弟子入りし、20歳で京都清水寺成就院の住職となった。後に弟の信海に寺をゆずって勤皇運動に入り、幕府側に追われて九州へ逃げ、西郷隆盛とともに薩摩の海に身を投げた。西郷隆盛は助かったが月照は帰らぬ人となってしまう。弟の信海も牛額寺に弟子入りし、高野山で修業をつみ、成就院住職となるのだが、やはり勤皇運動で幕府にとらえられ、39歳で獄死した。もとはブロンズ製の像であったが、第2次世界大戦の金属応召で台座だけになり、昭和53年(1978年)に速水史郎氏作の石像に生まれ変わっている。

 

 ついでに、この特別展示(有料)ものぞいてきたが、こういうアニメを見ていないので、内容がわからなかった。

 

 近藤喜文さんは、1950年新潟県五泉市生まれ。1950年新潟県立村松高校卒業後、Aプロダクションに入社。アニメーターとして「巨人の星」「ルパン三世」「ど根性ガエル」「パンダコパンダ」などで活躍。「未来少年コナン」を経て、78年、日本アニメーションに入社。79年放映の「赤毛のアン」(演出:高畑勲)でキャラクターデザイン、作画監督に抜擢される。1980年テレコム・アニメーション・フィルムに入社。「名探偵ホームズ」の後、日米合作映画「リトル・ニモ」の共同監督の一人として準備を進めたが、降板。1987年スタジオジブリに入社し「火垂るの墓」のキャラクターデザイン、作画監督を務める。高畑勲、宮崎駿の信頼も厚く、以後も「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」「紅の豚」「平成狸合戦ぽんぽこ」などで活躍。95年公開の「耳をすませば」で、初めて劇場用長編の監督を務めた。1998年解離性大動脈瘤により、47歳の若さで永眠。メリハリのあるアクションから細やかな生活芝居まで手がける高い技術と、仕事に妥協を許さない姿勢は、多くのアニメーターに影響を与えた。

 

 今日の掲示板はこれ。「教えることは習うこと どちらも何度も繰り返し」というもの。戦争を語り継ぐということも、それを受け継いでいく方も、どちらも何度も繰り返していかなければいけないと思う。だんだんと風化がささやかれ、高齢者が少なくなって行く中で、どうやって、この戦争の記憶を残していくのかは大きな課題になってきているなぁと感じたことだった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

Trending Articles