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無骨さを そのままにして 寒椿

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 さぬき市地方は気圧の谷の影響で、雲が広がっていた。気温は4度から12度、湿度は76%から58%、風は1mから2mの南南西の風が少しばかり。明日の30日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 今日は恒例の、所属寺院の報恩講の日。(この写真は過去の物。懐かしい先生の名前が・・)ところが、今年は12月の1日になっている。そういうことで、今日はぽっかりと予定が空いてしまった。

 

 そこで、ダイアリーの準備やら引き継ぎやらをやってみた。12月はすぐそこだし、来年も身近になってきたし。

 

 同じものなのに、一年も使えば、下のように厚くなる。上が来年用の未使用の予定表。

 

 来年用の年賀状も作ってみた。あまり、変わり映えはしないのだけれど。変わりがないって事は大きな変化がないってことだ。

 

 明日は、お隣の町のお寺さんでの報恩講。法話のおさらいを少しばかりやっておく。どうにも、まちぶら探検隊のガイド口調に戻ってしまう。そうそう、「まちぶら事務局」から「活動成果」と言うことで、写真がどっさりと送られてきた。

 

 報恩講が伸びたので、代わりに・・と言ってはなんだが、小砂説教所跡にお参りしてきた。庄松同行は、1798?~1871年の人。讃岐(香川県)大川郡(東かがわ市)丹生村土居で農業を手伝い、明治4年73歳で死去した。『庄松ありのままの記』によれば、「庄松はつねに縄を編み、あるいは草履を作りなど致し居て、ふと、阿弥陀仏のお慈悲のことを思い出すと、所作を抛(なげう)ち、座上に飛び上がり立ちながら、仏壇の障子を押し開き、御本尊(阿弥陀仏)に向かって、曰く『バーアバーア』」。これは、無学な貧乏人であった庄松が、子どもが親に甘えるように御本尊に甘えている姿であると言わている。

 

 庄松が臨終の床についた時、生涯独身であったため、一人で寝ていた。そこへ同行の市蔵が見舞いにやってきて、市蔵は庄松に「同行らと相談したんだが、お前が死んだら、墓を建ててやるから、あとのことは心配するなよ」と言った。すると庄松は、「おらは石の下にはおらんぞ」と答えたと言う。既に阿弥陀仏の本願に救われている身なので、墓石の中ではなく、浄土に生まれることを確信する中から発せられた言葉だと言えよう。

 

 しかし、現実にはこんなお墓が建っている。これは「報恩感謝」のお墓なのである。御恩報謝の念仏と同じである。供養のためではない。石碑には「庄松同行の墓」とあり、「釈正真信士墓」と刻まれている。 没年は明治四年三月四日と刻まれており、他面には、大同行 俗称 谷口庄松 丹生村 と刻まれている。

 

 絶対の慈悲に浴して、大信をさずかった者には、墓も卒都娑も いらぬ、追善、供養、施餓鬼一切無用である。追善供養は悪道に堕ちた者へする仕業である。庄松は極楽往生は治定の身であるからである。“親鸞上人は、自分 のなきがらは加茂川の魚に与えよ”と仰せられたではないか。「庄松は墓石の下にはいないぞ」である。

 

 正面の建物は四間に三間半の木造平屋建て本瓦葺きの建物で、建物内の梁や桁材に墨書された奉納者の記載などから明治初期の建物だと思われる。戸帖の奥には正面に阿弥陀立像や庄松同行の絵像や人形、掛け軸などが安置されている。

 

 字の読めない庄松が「聖人一流章」を逆に読んでいる場面。庄松同行に関する資料がこうして奉納・安置・展示してある。

 

 いよいよと、季節は晩秋から冬へと進んでいく。冬支度の準備もしっかりとやっておかなくては・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「庄松いわく また生えにゃよいがのう 角があるまんまと聞こえなんだか」という、小砂説教所跡にあったお皿の言葉から。京都から名僧と評判の御使僧が来られたので、庄松さんもお参りしていた。すると、お説教を聞いていた隣の人が、涙を流して「いやぁ、今日のお説教はありが たかった。おかげで日頃の邪見の角が折れたわいなぁ・・」とつぶやきながらお念仏するのを、そばで聞いていた庄松さんの一言。「また、生えにゃよいが のぉ。わしは角があるままのお助けと聞いたがのぁ」と・・。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という他力の大悲におまかせしてみると、悪業煩悩の角があるま まお助けに預かっている悦びがある。凡夫のままに救われていく世界を庄松さんは感得されていたのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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