さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。まるで春がやってきたかのような天候になったが、気圧の谷の影響で夜には雲が広がり、雨や雪の降る所があるらしい。気温は4度から10度、湿度は80%から62%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の2月1日は、気圧の谷や寒気の影響で、雲が広がる見込みらしい。
いつものように、朝のルーティーンをこなしておいてから、天気がいいので二階のお掃除をやってみた。
おこたを外して布団や敷物を干しながら・・・。
掃除機をかけて綿ぼこりを吸い込んで・・・。どこから、あの綿ぼこりは湧いて出てくるものなんだろう・・・。吸い込んでも吸い込んでも、いつのまにか湧いて出て来る。
で、午前中は、例の田淵家の納め札についての論文作成・・・。これは、どこに提出するものでもなく、どこかに頼まれたものでもない。単なる私の研究としての論文である。ま、一冊の本にはなるだろう。で、県立図書館あたりには納品できるだろう。
昨年秋かに、国立国会図書館から「納本せよ」と言うてきたのだが、納本をしてもハガキ一枚もよこさないし、着いたとも連絡が来なかったので、今後は一切、納本しないことに決めた。私の本など、国会に置くような本ではないのは明白なのに・・・。
この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。
1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。
1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)
住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。
二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。
今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。