さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は5.5度から13.2度、湿度は76%から46%、風は1mから2mの北の風が少しばかり。春らしい一日になってきた。明日の16日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
さて、久々の火曜日の「おへんろ交流サロン」。三週間ぶりになる。その合間に、ちょくちょくとは様子を見には来ていたのだけれど。
朝ドラを見終わってから、ここに来るので、8時45分ごろにはここに着く。約束の時間は9時からだが、みんな、それぞれに思い思いの時間にやってくる。この頃になると、87番札所の長尾寺の門前で宿泊をした歩き遍路の人たちがここに到着する時間帯になる。
で、準備してきた資料(手板)を元にして、これまでの展示から、さぬき市内の旧五町単位の展示に置き換える作業を始めた。
こういう雑然とした並べ方ではなくて、「さぬき市志度」、「さぬき市長尾」という旧町名単位に置き換えるのである。
こういう手板を元にして、女性陣にお願いをして並べ替え、置き換えをやっていただいた。
で、町別に並べて、町名の銘板も作成して配置した。
これは「俵札」に似た、「スボキ俵」と呼ばれているもの。「スボキ」というのは「阿波弁」から讃岐弁になった言葉で「ふくらはぎ」のことを言い、そのような形をしているが、徳島の鴨島町では足首のことを「すぼき」と言い、徳島市佐古では古老がひざの周りを「すぼき」と言い、神山町ではひざから足首までを「すぼき」と言い、徳島市石井町ではむこうずねのことを「すぼき」と言うらしいが、全体的に膝からかかとまでの間を言うようである。この俵の中にも「納め札」が入って居るらしい・・・。
それまで、台紙の上にそのまま展示していた、飯田家、寒川家でも和紙を敷きたい・・・ということで、急遽、高松市内まで和紙を買いに出かけたのである。
ということで、お昼からは、この和紙に敷き変えて、展示をやりなおすことになった。
とにかく、納め札が行方不明や迷子にならぬように細心の注意を払いながらの作業になった。やはり、置き換えてみると、白い台紙の上よりも紺色の和紙のほが見栄えが良くなるし、文字も読みやすくなった。
今回、ここに展示しているものの中で最古のものは天明5年(1785)の納め札だから、今から230年前のものということになる。そして目立つのが天保の5年ごろから10年頃のもの。いわゆる「天保の大飢饉」から逃れて、お接待を目当てにお遍路と化した集団のおまいりであった。
この左端の方は電機屋さん。この展示ケースの中の照明器具をどうやって点灯させるかを考えている図である。ご覧のように白い蛍光灯が内蔵されているのだが、接続する電源コードが行方不明になっていて点灯できない。そこで、方法を考えているらしい。
これが今回のチラシである。ここままでは見にくいので、上下を別々に拡大してみた。
これで、「俵札」とは何か・・・が分かるだろうし、この展示会を開いた理由も分かっていただけると思う。
さぬき市の三家、田淵家・飯田家・寒川家の簡単な紹介と、展示会の開催期間と場所などを紹介している。
今日の掲示板はこれ。「一生の中で誰かひとりの人生を変えられるのなら、自分の人生を変えようじゃないか。」という、ラス・カセーの言葉から。人生を変えるって言うと、大それたことのように聞こえるかもしれない。けっしてそんなことはない。ちょっとだけ前向きに行動するということをすれば、自ずと自分の人生も変わっていくということなのである。まずは、自分自身としっかりと向き合うことだ。どうなりたいのか。それはなんのためなのか。考えてみても正解はない・・・だから自分で決めようと努力するのだ。この言葉、巷にはあふれているけれど、「ラス・カセー」がどのような人なのか、どのような絵を描く人なのか、そういうことには少しも興味がないらしい。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。