さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は25.2度から32.9度、湿度は55%から70%、風は0mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の31日も引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
さて、連日の猛勉強と頑張りによって、7月末を目途に進めてきた「遍路札調査研究報告書」作成のミッションが終わった。
これが、A4版100ページの「プロトタイプ=試作版」である。教育委員会仕様の「白書タイプ」に仕上げてみた。
中身も両面印刷で本物らしく仕上げてある。
ま、「ここはこうしたほうが良い」とか、「あそこはこうしたい」という部分はいくらもあるが、それをやっていたらキリがない。ということで、この件は、ここでひとまず完結ということで封印する。パソコン画面の「遍路札研究」というショートカットも削除した。
さて、私が若い頃に勤めていた神戸都市管理部兵庫電話局である。今は「NTT西日本兵庫別館」というらしい。三階建て一部四階が機械棟と白い手すり部分が事務室や営業室とか食堂になっていた。その手前の平屋部分が私たちの「ラインマンセンター」になっていた。
その頃の私である。バックのタイル壁は少し色が変化しているように見えるが同じタイル壁である。当時は「若竹色」という色で、この車のような色をしていたと思う。
そんな頃、親父が入院した。「患者さんは自家用車を置かないでください」ということで、仕方なく、この父の車を神戸まで乗って帰っていた。この車で、すぐ下の弟「よっくん」と、いとこの「RRT(コールサイン)」を誘って高知県中村市へ遊びに行くことにして、出かけたのが昭和45年の8月1日のことだった。昔のことだから高速道路なんてなかったので、国道2号線をトコトコ走って、神戸から岡山経由で高松に渡った。
46年前の高松日赤は、まだ、木造の病棟だった。父の見舞いがてらに病院に入ると、「早く。早く・・」と呼び込まれた病室で父は亡くなった。電気パッドやら心臓マッサージが行われたが、父の呼吸は回復しなかった。職場から預かった「お見舞い」の熨斗袋があたりに散らばった。
父と母の結婚式の写真らしい。
楽しい夏休みを四万十の清流で過ごす予定が、真夏の父の葬儀に変わった。まだ、私は22才、弟といとこの「RRT」は20才。下の弟は18才の高校生だった。
手次寺の勝覚寺の先代住職が導師を勤めてくださった。
親戚一同が集まっての葬儀となった。もう、この写真の中の半数以上の方々がお浄土にお帰りになった。とにかく、暑い一日であったことを覚えている。
骨壺を持っているのが母。野辺位牌を持っているのが喪主の私。写真を持っているのが「よっくん」。三男の「たっくん」は就職試験でいなかった。試験から戻ってきて父の死を知らされて大泣きに泣いた。
あれから46年。親父の生き切った年月が過ぎた。そして、私は68才になった。
奥方のけいこばぁは、明日の「祥月命日」の法要のための買い出しに出かけた。明日もきっと暑くなることだろう。
今日の掲示板はこれ。「あなたが生まれなければ、この世に生まれなかったものがある」というもの。アミューズメントメディア総合学院 のコピーらしい。「夢を夢で終わらせない」。この言葉は、いつも私の中に生きている。「世界に一冊だけの本を作る」「どこの本屋にもない本を作る」それが、わたしの「まほろば工房」なのである。何かを生み出したいと苦しんでいる私たちには勇気づけられる言葉である。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。