さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は26.6度から34.1度、湿度は95%から70%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。明日の2日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
お客さんたちは目が覚めると飛び出すように帰ってしまった。奥方も7時には出勤していき、孫のハヤテ君も7時には帰りたいというので、屋島の家まで送って行った。そこで着替えをして、女木島まで行くので玉藻城まで送って行った。
10時過ぎにわが家に戻り、昨日のブログを更新しておいた。その後、この焼き物を見に行くことにした。
旧井筒屋敷というのは、元禄5年(1692)から醤油業を営んでいた旧井筒屋が、2005年2月に讃州井筒屋敷としてリニューアルオープンした建物。この旧井筒屋は、東かがわ市引田の 古い町並みの中でも威容を誇る引田御三家の一つで、景観上欠くべからざる建物であるとともに、歴史的にも貴重な財産であるとして、旧引田町が購入し、東かがわ市が改修をし、古い町並みの景観を活用した観光交流の拠点施設として、注目されている。
こうした藍染め付け伊万里焼とか道八焼きとか源内焼きとかの焼き物などが展示されていた。
よくわからんが、旧井筒家が保管をしていた焼き物や軸などが展示をされていたが、こうしたものを見てもちんぷんかんぷん。資料もパンフレットも用意できていないのか何もなかった。
涼をもとめて・・・というタイトルにしては暑いばかりの室内だった。ここは古い建物のせいか、冷房装置はない。
旧井筒屋敷と紹介したが、本当は「旧佐野家住宅跡」といい、江戸時代の元禄5年(1692)の創業後間もなくから上方や江戸あたりまで醤油を出荷し、引田醤油の名を全国に広めた『引田御三家』のひとつだった。
大正2年(1913)から酒造も手がけ、合名会社酒造井筒屋を設立し、大正9年(1920)からは焼酎やみりんの製造も始めるなど、戦前まで栄えた。しかし、平成9年(1997)頃から当屋敷は空家となって朽ちるにまかされていた。
そこで旧引田町(現・東かがわ市)はこの町の歴史的建物の保存のために平成13年(2001)になって母屋と倉庫群を取得した。東かがわ市により改修が行われ、新築の蔵とともに平成17年(2005)に「讃州井筒屋敷」の名称で一般への公開が始まった。以来、引田の町を代表する建物、歴史資料館として、また観光客への情報発信と食事処、土産物店、休憩所として活用されている。
母屋と呼ばれている部分が旧佐野家の住居部分。居間、奥座敷、屋根裏部屋、帳場の間取りがある母屋と、離れの茶室を公開している。併設の2階建ての釜谷蔵を活用したギャラリー「かまや」では1階は旧井筒屋伝来の品々と醤油業に関する資料を展示、2階はギャラリーで絵画、陶芸作家らの作品展示を行っている。
圧巻は、二月末から3月初めに行われる「ひけたひなまつり」である。
今日の掲示板はこれ。「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く」というもの。松本善三作詞 佐藤勝作曲 美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」という歌からである。朝日新聞の投書欄「声」にたびたびこの曲についての投稿が載っているという。時々、この歌は聞くことがあるが、改めて歌詞を読んでみて感激した。昭和49年8月9日の第一回広島平和音楽祭で実行委員長の古賀政男さんの プロデュースで書き下ろされたものという。 その後、昭和63年の第15回広島平和音楽祭でも歌っている。62年に福岡で倒れて緊急入院。63年4月の東京ドーム公演で不死鳥のように復活し(白いフェニックスのような衣装が印象的だった)、翌年2月からツアーを再開したものの、2月7日の小倉公演の終了後に倒れて、6月24日に帰らぬ人となった。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。