さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は4.4度から9.5度、湿度は76%から70%。風は1mから3mの北東の風が少しばかり。明日の7日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷や湿った空気の影響で夜は次第に雲が広がる見込みなのだとか。
注連縄などの準備ができたので、すっきりとした気持ちでここにやってきた。高松市香南町にある「香南歴史民俗郷土館」で、「屋嶋城(やしまのき)のものがたり」という展示をやっていると聞いたのである。
白村江(はくすきのえ)の戦いの後、中大兄皇子は、唐・新羅の連合軍の侵攻に備え、国を守るために、北部九州から瀬戸内海にかけて城を築かせた。その一つが「屋嶋城(やしまのき)」だった。日本書紀にも「讃吉國山田郡に屋嶋城、対馬國に金田城を築く」という記述がある。
しかし、連合軍の侵攻はなく、城は見捨てられ忘れられ元の山野に戻ってしまった。「確かに屋嶋城はある筈・・」と、一人の郷土史家・平岡岩夫が屋島中を歩き回って、ついに、この石積みを見つけ出した。平成10年のことだった。
かつて「幻の城」とされていた屋嶋城が復元されたのは平成28年だった。しかし、これは広大な屋嶋城のほんの一部に過ぎない。屋嶋城は「幻の城」から「謎の城」と呼ばれるようになった。
ここからは坂出市の「城山城(きやまのき)が見える。城山からの「のろし」をここから確認したのであろうか。
香南町から国道193号線を南下して高松市塩江(しおのえ)町に入る。ここには、高松市塩江美術館がある。
ここで、「生誕100年市原輝士-伝承-展」が行われている。香川県で生まれ育った市原輝士(1916 - 1996)。地元で教職に携わりながら、郷土史家として香川県内をはじめ、四国地方の民家や民俗を研究していた。また高松市史の編纂などにも携わり、数々の功績を遺している。
市原輝士先生と言えば郷土史家か民俗学者かと思って居たが、ここに来て、初めて先生の素顔を知った。
私が若い頃に読みふけったこの本も市原先生の本だった。
ところが、こうした民家や民俗風習などをスケッチし、水彩画で描いて残しているのである。若い高松工芸高校の頃からのスケッチも残されていた。
今はもう、見られなくなった昔の生活。昔の台所やかまどの絵。先生は、民家や民俗を求めて東北など各地を訪ねて歩き、それらを克明に絵として残されている。
市原輝士先生の生誕100年、没後20年を迎えた今年、ご家族の協力をいただいて、その足跡と人物像を残された資料などを通して紹介している展覧会である。
午後からの恒例の集落内パトロール散歩。県道の防災工事の真上でひなたぼっこをしているサル軍団・・・。すぐ下では重機がうなりダンプカーが走り回っているのを高見の見物。
今日の掲示板はこれ。「生かさるる いのち尊し けさの春」という、町内の善楽寺にあったもので「中村久子」さんの句である。中村久子さんは、1897年、飛騨の高山で誕生し、三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされた。中村さんは、その障がいの事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障がい者への差別の厳しい、生きていくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として72年の生涯を生き抜かれた。晩年詠まれた「手足なき身にしあれども生かさるる今のいのちはたふとかりけり」に、自己の「身の事実」を機縁として、真実の世界に目覚 めていくという、中村さんの心の軌跡が窺える。 春は、全ての「いのち」をはぐくみ、育てる自然の営みの尊さをひとしお輝かせて見せてくれる。中村さんは、その中に生をうけ、生かされている自らに気づか され、その事実によろこばれたことと思われた。目覚めるたびに今朝も生きているとの確認は、生かされていることの体感であり、実感であったのであろう。そ の体感が苦難の中を精一杯生きる力となったものと思われる。 「今日のことば(句)」は、新しい春を迎え、あらためて人間の存在の真実を考えさせてくれる ものであろう。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。