さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は2.2度から12.2度、湿度は88%から60%、風は2mから3mの西の風が少しばかり。明日の16日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。
よい天気の日には布団を干しておく。でも、これが大仕事。おなかに水がたまるものだから、うつむいたり、重い物を持つと心臓を圧迫して苦しくなる。布団を持ち上げるということが苦しいのである。
その後は部屋を片づけて掃除機をかけておく。
今日は年金支給日ということで、銀行とJAさんと郵便局とで一斉記帳したり、週末の母の五回忌用に現金を引き出したりするが、皆さん、同じようなことで、どことも大混雑。その合間に、87番札所の長尾寺さんに今日もやってきた。
今日のターゲットはここ。自在天堂という建物である。自在天というと、ヒンドゥー教のシヴァ神を思い浮かべがちだが、ここはちと違う。ここは、「天満大自在天神」ということで、菅原道真公の御霊を神格化した神様のことである。
長尾寺の鎮護神として、境内の西側に、こういう建物がある。
で、紛らわしいのだが、「自在天」と表記されている。だから、祭神は、「天満大自在天神」ということになる。なんで、ここに菅原道真をおまつりしているのかと言うと・・・。
こういう看板が立っている。平安時代、当長尾寺に明印という名僧がいた。讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、延喜2(902)年、道真公が九州へ左遷のときに志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」の詩を贈って心を慰めた。公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだが、後にこの古事により、宝永7(1710)年、天満自在天神宮として建立、当山鎮守として祀られている。
祭事としては、1月25日の初天神祭で、併せて筆供養お焚きあげが厳修される。これが「筆塚」である。
元慶( 877- 885)年中、菅原道真公の知識と言われた明印法師もこの寺に往持した。師、はなはだ博学多通にして、そのほまれは帝都にも達した。
菅公筑紫左遷の砌、志度房崎の沖に、小舟でこぎ寄せて「不期天上一円月。忽入海西万里雲」という詩を贈り、公は幼時の自画像を呈せられ自在天堂に祠る。さらに屋島寺の覚遍法師等々名匠・硯徳相次いで往持した。
ということで、丸瓦には「梅」の紋所、四隅の角には牛の焼き物が載っている。
普段には何気なく通り過ぎる風景の中に、思いもよらぬ歴史が横たわっているものである。今度のガイドの時の話題に追加したいものである。
今日の掲示板はこれ。「老病死は自然である その老病死する事実に向き合わず逃げ回っている我々の姿を無明という」という、赤松先生のお寺にあったことばから。生まれたいのちは、その瞬間から「老病死」を抱いて生まれている。それが全てのいのちに共通する自然である。その事実に向き合わずに、自分だけは死にたくない、老いたくない、病になりたくない・・と、逃げ回っている姿を「無明」というのである。無明とは仏教語で、邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知のことを言う。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第一、三惑の一とされている。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。