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晴れてよし 曇ってもよし 梅の花

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 さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、概ね曇っていた。寒気の影響で、夜は雨や雪の降る所がある見込みだとか。気温は6.8度から10.6度、湿度は82%から51%、風は5mから8mの西の風が強くて寒かった。明日の8日は、引き続き冬型の気圧配置となるため、概ね曇るらしいし、明け方まで雪や雨の降る所がある見込みなのだとか。

 

 あっという間の一週間が過ぎて、今日も律儀に「火曜日」になった。歳をとると、「教養」と「教育」が大事やで・・と、どなたかが言うていたが、それは、「今日、用」と、「今日、行く」ということで、「今日も用事があるでぇ・・」と、「今日、行く場所があるでぇ・・」ということらしい。

 

 ま、そういう暇つぶしという意味合いもあるのかも知れないが、こうしたお年寄りが集まって、「ああだ」「こうだ」と、他愛もない勉強をしている訳だ。

 

 たくさんの「紙くず」の中から「厳選」された紙切れである。これらを、どうやって展示をするのかを考える段階になってきた。

 

 「これはお寺の護符やな・・」とか、「これは神社の神符やな・・」と、並べ替えたり、置き換えたりしている。

 

 女性陣は、先日の遍路道ウォーキングのアンケート調査の集計や会計処理をやっている。この左端にいる方が中島先生というのだが、唐突に、「牛飼いさんの碑は、どこにあったんかなぁ」と言い出した。「牛飼いさんの碑なんかがありますのか・・・」と、突っ込みとボケとの漫才みたいな会話になった。

 

 聞いてみれば、空海さんの大学の先生が「岡田の牛養(うしかい)」という人で、さぬき市末(すえ)という所に永住したんだそうだ。

 

 延暦10年(791)12月、寒川郡岡田村の人岡田臣牛養ら二十烟(戸)の人々に、岡田臣の姓を賜り、牛養は大学の博士に任ぜられた。 今寒川郡の地に岡田村の地名が残ってはいないが、志度の東末に、岡田神社があり、岡田氏一族の氏神であったが、後旧末村の鎮守となったと伝えている。今は神社境内326.7平方㍍であるが、明治5年の「各村道路神社書出帳」に依ると、字岡田352番地、岡田神社境内20㌃(社建反別一畝歩、林反別一反九畝歩、此木数松百十本、但し尺周りより二尺周りまで)とある。

 

 末地区は往古「岡田村」と呼び、今なお岡田の免名、岡田屋敷跡、岡田明神、大岡田寺(霊芝寺の前身)など、岡田の名残を留めている。

 

 平成3年圃場整備事業が行われ、岡田屋敷跡が消滅し、圃地となったので平成10年ここに碑が建てられた。

 

 霊芝寺(れいしじ)は、真言宗高野山派、もと高野山金剛峰寺の末寺で、本尊は、十一面観世音菩薩である。開基は、いろいろと説があり詳らかではないが、弘仁年間(810~823)弘法大師が師である大学博士岡田牛養の追福のため創建せられたと伝えられる。東林山遍昭光院または、日内山大岡田寺と呼ばれていたが、天正11年(1583)4月、讃岐進攻の土佐・長宗我部勢の兵火に焼けたが、明暦3年、志度の僧宥春が釈迦堂を再興し、続いて山城の僧恵忍が来錫して、高松藩祖松平頼重公の助けを受け、寛文年間に堂宇を再建し、延宝4年(1676)、二代藩主頼常公が、東林山霊芝寺とあらため、翌年本堂を建立し、同8年には寺領百石を寄進した。

 

 江戸時代前期の1662年(寛文2年)、山城国西明寺の僧・恵忍が来錫し、寺院再興を発願した。高松藩初代藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、山門が復興された。水戸藩主徳川光圀の子で頼重の養子となった2代藩主頼常は1676年(延宝4年)、寺号を東林山霊芝寺と改め本堂を建立した。

 

 しかしのかかし、「岡田牛養の碑」なるものは、どこにもなかった。碑といえば、「屋敷跡」の碑くらいなもの。中島先生、何を言うとったんじゃろうか。

 

  今日の掲示板はこれ。「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は変わらざりけり」というもの。これは、幕末の政治家・山岡鉄舟が剣の悟りを得た時に詠んだ歌だといわれている(東京都神社庁『生命の言葉』三月)。鉄舟は号。通称は鉄太郎。いわゆる「幕末の三舟」のひとり。(ほか、勝海舟、高橋泥舟)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。官僚であるが、同時に剣や書の 達人として知られる。弱冠15歳の時に「修身二十則」という自らへの誓いを立て、生涯守り通した。肝が太く無私無欲。駿府での西郷との単身会談はあまりに 有名。「人はとかく自分の不幸を周囲の環境のせいにしがち」と指摘し、「本来あるべき自分をただそのままに生きていけばいい」と説いているのだという。天候に関わらず常に富士の山であり続ける故郷・静岡の富士山のように、逆境にあっても自分を失わずに生きていたい。またそれこそが人の器の証明なのだが、しかしそれにしても、迷ってばかりの我が人生。晴れても曇っても泰然自若の日々が早く訪れることを願いたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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