さぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていたが、午後からは曇ってきた。気温は5.7度から13.8度、湿度は90%から66%、風は2mから4mの西の風が一時は強かった。明日の29日は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから夜のはじめ頃にかけて雨の降る所があるらしい。
毎週、火曜日はここに出勤である。さぬき市前山にある「前山地区活性化センター」である。通称は「おへんろ交流サロン」というお遍路さんの休憩場所になっている施設。
今日は、5月のウォーキングのチラシの文面の推敲・校正作業を、ああだ、こうだ・・とやっている。
私と中島先生は、次の展示の準備中。まずは、「飯田家の納め札」の撤収と元のファイルに戻す作業。
整理が終わると、次は展示の準備。今回は「六十六部日本廻国」の納札である。六十六部廻国聖とは、法華経を66部書写して、一部ずつを66か所の神社仏閣の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代には、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者たちを言う。略して六部(ろくぶ)とも言った。
今回は、仮置きをしてみて、枚数とかの調整をすることになった。日本廻国の納札でもずいぶんと残っていたものだ。
春になると、ぽつりぽつりと歩き遍路の方がやってきて、しばらく休んだり、係員に説明を聞いたりする。私どもはノータッチ。質問されたらお話くらいはするのだけれど。
ひょんなことから、大阪の神職さんからメールを頂いて、この変哲もない紙切れが、とても大事なものだとお知らせを頂いた。
それに関連して、「感神院」というお札も見つかった。
こんな「牛」の絵も数枚、見つかった。「当社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。」と、八坂神社の由緒にはある。
これは、「蘇民将来子孫也」と書かれた紙符。「我蘇民将来之子孫也」という 八坂神社などののお札は、「私は蘇民将来の子孫です。だから、ご先祖さまと同様、あなたさま(疫病神)を手厚くもてなします」という意味が込められているというのである。京都の八坂神社の祭神のスサノオは疫病神(疫病の神様)で、スサノオを鎮めるために行われるのが祇園祭であるという。スサノオが疫病神になったのは、中国の伝承と結びついたためであるらしい。
ということで、このコーナーは私が担当することになった。そういえば、しわく広島には、「祇園牛頭天王社(八坂さん)」という神社があったことを思い出した。
午後から、県営大川ダムまで散歩してきたが・・・
桜の開花はまだ、なかった。でも、だいぶ、つぼみがふくらんできている。
今日の掲示板はこれ。「別れがあるから 毎日が貴重である」というもの。朝ドラもいよいよ最終の週になるらしい。「いくらお金があっても買えないものがある。それは寿命だ」とか言うセリフがあったような・・・。必ずやってくるお別れの時、それまでの時間をいかに明るく楽しく元気よく過ごせるのか・・・。そのことを考えてみれば、今日という日、今という時間が貴重だということは納得できることではないか。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。