さぬき市地方は気圧の谷の影響で概ね曇りとなっており、夜遅くには雨の降る所があるらしい。気温は6.2度から14.3度、湿度は94%から48%、風は1mから3mの西北西の風が少しばかり。明日の30日は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇り、明け方まで雨の降る所がある見込みなのだとか。(tenki.jp)
水曜日になったので、香川県立図書館にやってきた。この前に借りた「自分史」に関する本を斜め読みしたが、あんまり参考になるものはなかった。
そこで、五冊の本を返却して、またも五冊の本を借りた。
ここの図書館に仏教書はたくさんあるのに、「神道」に関する本は多くない。八坂神社や祇園社の本を探したが二冊しかなかった。そこで、ついでに狛犬の本を三冊借りてきた。
祇園神社は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社であった。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、広峯神社、天王神社、八雲神社、須賀神社、素盞嗚神社などがあり、時代や資料によって通用される。名称は、神仏分離以前に現在主祭神とされているスサノオが祇園精舎の守護神である牛頭天王と同一視され祀られていたことから来ている。同様の信仰を持ち、「牛頭天王社」と称する神社も多かった。
明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、神道の神であるスサノオが残ったが、同時に多くの神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名された。しかし神社の名前が変更されても、地名としての「祇園」「天王」や、奉納される祭の「祇園祭」「祇園御霊会」といった呼称、また神社の愛称としての「祇園さん」「(お)天王さん」等が残っている地域は多い。
昨日の「牛の絵」である。ここに「讃州龍燈院」とあり、「滝宮」と書いてある。調べてみると、和銅二年(709)、行基菩薩が滝宮の綾川に霊を感じて祠を作ったのが始まりとの伝承がある、龍燈院綾川寺(明治元年から滝宮神社となる)があったらしい。
そこで、綾川町にある「滝宮天満宮」に行ってみた。菅原道真は国司として在任中は善政を施していたので4年間の任期を終えて京に帰るとき、人々は川西で見送りをし、頭を伏せて拝んで別れを惜しんだ。道真は京に帰ってから出世し右大臣までなったのだが、藤原家の画策により冤罪を負って、九州大宰府に流されることになり、海路で向かっていた途中、強風で高松市香西の神在浦に三日間泊まっていた。これを知った龍燈院綾川寺の住職空澄は会いに行き、許されて船上で会うことが出来、少しの時間別れを惜しんだという。別れ際に道真から記念として御装束と自画像を賜った。その2年後に道真が大宰府で亡くなったのを知った空澄は道真が官舎としていたところに小さな祠をつくり、道真から賜った二品を奉納して道真の冥福を祈ったのが「滝宮天満宮」の起源と言われている。
これが「龍燈院跡」の石碑である。道真が讃岐に赴任した当時、綾南町の滝宮神社の境内になっている辺りには行基が開創といわれる龍燈院という寺があった。道真は、龍燈院の一角にあった官舎に住んだと伝えられている。道真が赴任した当時、龍燈院の一角には讃岐一国の氏神を祀る祠があり、寛平元年(889年)、その祠に道真と龍燈院主とが祇園から牛頭天王を勧請して社殿を創建し、それが後の滝宮神社になったと言われている。しかし、明治維新の神仏分離策により滝宮神社は残り、龍燈院は廃寺となってしまった。その後龍燈院の建物は焼失して今は神社境内に跡地の記念碑が残されているのみである。
NHK-TVでやっていたが、「ブラタモリ」で讃岐うどんの発祥地と言うていたが、空海さんが唐で習ってきた「うどん」を甥の「智泉」に教え、それを一族に食べさせたのが「うどんの発祥地」となったそうだ。
滝宮神社は、明治初年の神仏分離令までは、巖松山綾川寺龍燈院の牛頭天王社と称していた。寛平元年(889年)讃岐国司菅原道真と龍燈院主空澄が、祇園牛頭天王社を勧請したのが由来。堂宇は、明治6年の西讃竹槍騒動により焼失。以後再建されたもの。
午後からは「集落内散歩」で大川ダムまで歩いてきた。
暖かくなったので一気に開花するかと思えば、わずかに、この一輪だけの開花だった。この調子だと、31日の「塩飽本島お大師まいり」でも桜の花は見られないかも知れない。
今日の掲示板は、今日のお話とはまるきり関係ないが、「気分ひとつで大違い まだ半分 もう半分」というもの。冗談半分で引き受けた「俵札」研究。たいしたことあるまいと、たかをくくっていたが、開けてびっくり、「パンドラの箱」。昔の筆文字は読めない。古文書には触れたくない。でも、どうにか・・・大きな峠は越えられた。これは、「もう、半分?」「まだ、半分?」・・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。