さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で、概ね曇っており、夜は雨が降る見込みらしい。気温は18度から25度、湿度は90%から70%、風は1mから3mの東の風が少しばかり。明日の13日は、低気圧や前線の影響で朝まで雨が降り、昼前まで雷を伴う所がある見込みらしい。
昨夜は「○望」旧暦四月十六日だった。
一昨年の今日の県道防災工事。何をモタモタしてるんじゃろうか・・・と思っていたが。
今日の同じ場所。掘削、法面保護も終わって最終段階にきているらしい。今度はこの、左のように防護ネットを張るらしい。
この、「城山まつり」のご案内を頂いていたもので、香南歴史民俗郷土館に行ってみた。
築城年代は定かではないが南北朝時代に由佐氏によって築かれたと云われる。 由佐氏は下野国益子氏の分流で、建武3年・延元元年(1336年)足利尊氏に属し新田義貞との戦いの功により讃岐国香川郡井原荘を領し由佐氏を名乗ったことに始まる。室町時代には細川氏、戦国時代には三好氏に属していたが、長宗我部氏の讃岐侵攻に降った。しかし、羽柴秀吉の四国征伐の後は仙石氏さらに生駒氏に仕えた。
宝暦十三年(1764)2月24四日 中山城山(なかやま じょうざん)が香川郡池西村大字横井(現在の香南町横井)に生まれた。江戸時代の徳川天下太平の世で、学問、文芸、教育とめざましい発展をし、家康は儒学を官学として武士らの学ぶものとした。特に朱子学に力をいれた水戸藩と深い関係の高松藩も朱子学が盛んで藩校でも儒学を講じた。
のち 夫人の死によって国を離れ大阪 京都 長崎に 文化十二年(1815)五十三歳の時、子供に先立たれたあと郷里に帰り「全讃史」全十二巻を実に十年余りをかけ、文政十一年(1828)完結させて高松藩に献上している。
城山はこの「全讃史」の刊行に当たっては 大変な力の入れようで 完結に当たって「吾国恩に報ずるもの之のみである」と言っている。これらは、みな城山自身が、讃岐の全域にわたって尋ね歩き、実地踏査のうえでかき上げた労作であり今日の郷土史研究の貴重な書物となっている。
城山の号は 生涯愛し続けたという坂出市府中の城山(きやま)からとったものである。城山の石碑が 坂出市高屋町の遍照院境内にあり城山(きやま)に向かって建てられており 弟子藤澤東畡が撰文している。
城山生涯の著作は 四十七部 百二十五冊に達したのである。天保八年(1837)四月二十三日病歿。七十三歳。墓所は香南町横井にある。<参考文献:讃岐人物風景 さぬき歴史暦> 本年は、大正6(1917)年、岡山県で創設された済世顧問制度を源とする民生委員制度の創設100周年という大きな節目の年だそうである。創設したのは、当時の岡山県知事であった笠井信一氏。笠井知事は、大正天皇から岡山県内の貧しい人々の生活状況について尋ねられ、状況の調査を行った。すると、なんと県民の1割が「極貧」とも言える状況にあることが分かったのである。この事態を重く見た笠井知事は、防貧制度(貧困に陥ることを防ぎ、また貧困に陥った人を救う制度)を確立するため研究を重ね、大正6年5月12日に「済世顧問設置規程」を公布した。これが「済世顧問制度」、現在の「民生委員制度」のはじまりで、このことにちなみ、現在では5月12日を「民生委員・児童委員の日」と定めている。 だから・・という訳でもないが、今日も、この「ひとり暮らしのつどい」のご案内。ひとり暮らしだから、自宅にじっと籠もっている訳ではない。デイサービスに行ったり、山でサルの番をしていたり、裏庭で草引きしていたりと、なかなかにお会いすることができない。 そんなんで、今日も担当地区内パトロール。 今日の掲示板はこれ。「他人がやると大悪党にみえるが、自分がやった時は必ずやむをえぬ事情がある」というもの。出拠・原典は不詳だが、「あの人、あんなことをやってる・・・。悪いヤツやなぁ・・」と思うことは多々あること。マイカーの灰皿をコンビニの灰皿に捨てて平然としている人とか、よさまのお墓を靴のまま、踏みつけたり蹴飛ばしたりして、さも、あたりまえのような顔をしている人とか・・・。でも、それが自分だったら、「これはこうだから、こうしたんだ・・」と、確かにやむを得ぬ事情らしきものを並べ立てる筈。自分さまが社会を汚し、世間を暗くしていることなどには気づきもしていない。 じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。