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Channel: まほろば自然博物館
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睡蓮に 遠い昔を 聞いてみる

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は18.1度から27.3度、湿度は92%から46%、風は1mから2mの西北西の風が少しばかり。明日の10日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷が接近するため、夕方から雲が広がる見込みらしい。

 

 そろそろ、大窪寺前の八十八庵(やそばあん)のあじさい園がきれいになっている時期かなぁと出かけてみたが、山間部はあじさいの開花はまだまだのようで、「立ち入り禁止」の柵がしてあった。「それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭昇太」ということで、別の山道を走ってみた。

 

 すると、「寒川家」という字が見えた。車を止めて、墓地に入ってみた。「寒川利一」の名前が見える・・・。

 

 それって、今、私がやってる「俵札」の持ち主ではないか・・・。

 

 名門寒川氏の末裔らしい、歴史のあるお墓が並んでいるし、お墓に刻まれた紋所も、「三階松」であった。

 

 それでは・・・ということで、おそるおそる、この住宅をのぞいてみた。おうちは新しいが、このおうちを建てる時に、屋根裏から、小汚い俵が出てきたので、どうしようもなくなって、「おへんろ資料館」に寄付したものだろう。ずいぶんと前から廃屋になっている感じ。今は、住宅地の多い、同じ町の「造田宮西」という地区に住んでいるらしい。

 

 帰ってから、住宅地図で調べたら間違いない。ここだったのか・・・。

 

 昼寝城の登山口までは行ってきたが、さすがに一人で山に登る勇気はない。

 

 しばらく下がった所にあった、「多和神社」である。江戸時代までは、式内・多和神社とされていたが、明治になって、激しい論争の末、内務省より、志度の多和神社が式内社に比定されたという。祭神は資料には大己貴命。ただし、境内の由緒石碑には手置帆負命の名も記されていた。

 

 拝殿の寄付額には、寒川家の大正時代を生きた、「寒川利三郎」の名が残されていた。おそらく、この地の名士だったのだろう。

 

 近くで、草刈り機で「淡竹(はちく)」をなぎ倒しているご婦人がいたので、数本、分けてもらった。ついで・・だからと、野蕗も少しいただいた。

 

 野蕗は、水にさらしてあく抜きし、ハチクはお鍋で湯がいておいた。料理は奥方任せ。

 

 帰り道、県立亀鶴公園に寄ってみたが、今年は花の数が少なさそう。咲き乱れる・・というところまではいかないように思う。

 

 帰ってみると、愛用のコンパクト・デジカメが壊れていた。少し前からおかしい・・と思って、瞬間接着剤とかで補強していたのだが、遂に壊れて、シャッターボタンが紛失した。明日は徳島へバスツアーなのに、カメラが壊れては困ったことだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「晴天は 雲の向こう側にある」というもの。「雲外蒼天」という言葉もある。今は土砂降りの雨のさなかにいるが、やがて雲が晴れれば青空が広がる。今は苦しいときだろうが、じっくりと自分を磨いて待っていれば、きっと必ずや道が開ける時が来る。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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