さぬき市地方は、前線を伴った低気圧が山陰沖を北東に進むため雨が降っていた。気温は6.0度から14.6度、湿度は92%から84%、風は1mから5mの東南東の風が少しばかり。明日の9日は、気圧の谷の影響で未明まで雨が降る見込みで、その後、次第に冬型の気圧配置となるため、曇るらしい。
相変わらず、鼻水と鼻血が思い出したように出る。何かを拾おうとして下を向くと鼻血が垂れる。だからいつも、ティッシュを手に持っていないといけない。
おお、屋嶋の城か・・・と、いそいそと高松市香南町の「香南歴史民俗郷土館」に行って来た。
雨の降る日は天気が悪い。小雨の中を走ってきたがはてさて・・・。
屋嶋城はわかるが、「相作馬塚古墳」とはなんじゃらほい。どうやら、「あいさこ・うまづか」と読むらしい。
最近まで中世の塚(墓)とみられていた高松市鶴市町の相作馬塚古墳(5世紀後半)を市教育委員会が調査し、未盗掘の石室を確認した。副葬品の武器や武具が埋葬時のまま良好な状態で残され、埋葬儀礼を復元できる貴重な資料になるらしい。
墳丘は中世以降、塚に転用されて大きく壊されていたが、石室(長さ3・2メートル、幅0・6~0・8メートル、高さ0・6メートル)が残されていた。直径16メートルの円墳か帆立て貝形古墳だったとみられており、石室内には、よろいの「短甲」、「眉庇付冑」、槍2点、鉄製矢尻約60点、大刀1点、管玉10点などが副葬されていた。また、木棺に使った鉄製のかすがい11点も出土したという。
宅地開発に伴って6~8月に発掘、古墳はすでになくなっている。市教委は「当初は古墳とは考えておらず、石室が残っていたのは奇跡的。副葬品の分析で今後、多くの情報が得られるだろう」と話している。
663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗した。これを契機として、唐・新羅の連合軍侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城。日本書紀の天智天皇6(667)年11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」 とある。
こんなものから、ここに屋嶋城があった・・と言い出したんだからすごい。誰もが見過ごすばかりだ。
で、ここから、狼煙をあげて連絡したというのだが、煙だけでどういう情報が送れたんだろうか。
数々ある論文の中から、左から二番目の「英国士官レキの墓に関する総括的考察」を最終論文とし、幾分かの修正や追加を行ってみた。論文を書いた時点での視点の相違や事実確認の立ち位置が違っている。
添付する画像も確認する。
最終更新日が近いのは、パワーポイントによる講演会資料だから、これを参照しながらの論文修正になった。
今日の掲示板はこれ。「「寒いね」と話しかければ「寒いね」とこたえる人のいるあたたかさ」という俵万智さんの短歌である。人生、それなりに長い年月を生きていると、どうでもいいことに有り難さを感じたり、当たり前のことに優しさを感じたり、求めてもいなかったことに恋焦がれたりするものである。寒い時に、「寒いね。」って同意してくれる人がいることって、とても素敵なことだし、有り難いことだとおもう。どんなささいなことでも、同意して、共感して、肯定してくれる人がそばにいるっていうのは、ありがたいことなぁと思う今日、このごろである。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。