さぬき市地方は冬型の気圧配置となっているため、太平洋側を中心に概ね晴れていた。気温は-0.8度から4.5度、湿度は70%から62%、風は5mから7mの西の風が少しばかり。明日の8日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしい。
三日連続の雪の朝になった。奥方は「日勤」だと言いながら早めに我が家を出て行った。
今日は「住宅(すみたく)顕信」の命日で、31回忌になる。「層雲」に権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加した。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。法名は泉祥院釈顕信法師。
父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を「釋顕信」と名乗る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」にちなみ、「無量寿庵」と名付けていた。
1984年2月、急性骨髄性白血症を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放裁に心酔していた。1988年、句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により、句集『未完成』(弥生書房)を刊行した。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。このように挨拶した息子の住宅春樹だが、今は「川崎医療福祉大学」を出て、「ニチイ学館」に所属するようである。
昼からは、雪が溶けただろうと、いつもの大窪寺に行ってみた。
先日にも書いたけれど、大窪寺の大師堂前にある手水場(ちょうずば)である。本来はこういう姿なのであるが、
それが、こういう風に凍っていき、
先日には、こういう姿になっていた。
今日は完全に凍り付いて、もう、水は流れていなかった。
帰りにふきのとうを見つけたが、これ一個だけだったので、そのままにして戻って来た。一個だけではどうしようもない。
今日の掲示板はこれ。「欲しいものはたくさんあるけれど 必要なものはそう多くない」というもの。どこの誰の言葉かはわからない。若い頃には「あれも欲しい」「これも欲しい」と思っていたが、年のせいかどうかは知らないが、あんまり欲しいものもなくなってきた。欲しいものと言えば、 新しいパソコンとかタブレット端末だとか、レーザープリンターとか・・・。でも量販店でながめていても、「必要かなぁ」と考えるとどうでもよくなってしま う。衣類でも図書でも似たようなもので・・・「欲しいものはたくさんあるけれど、必要なものはそう多くない」。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。