現実の娑婆世界へ戻って来た。そのことを如実に感じられるのが「苦痛」の世界であろう。釈尊は、苦について悩まれ、苦から脱する法こそ悟りの世界だとされた。
胸の痛み、器具を挿入された喉の痛み。それらが今の私の苦であった。その苦のために、眠れない、食べられない、横になりたくない。でも、それが許されないのが現世であり、穢土であり、娑婆である。
今日のお昼から七部かゆ、バナナ、牛乳などが出されたが、何日も食べていない分、皆目食べる食欲も元気もなかった。歯磨きの練習をして、靴をはいて、南3フロアを歩いてみた。このドアの向こうが、私の居るccuである。ここから出て・・・。
途中にある計尿トイレにも寄ってみた。CCU内に置かれたポータブルトイレではなく、南3フロアにある計量トイレを使うことを許可してくれた。これだと靴を履いて、ウォーキングのリハビリにもなるし、何よりポータブルトイレの後処理を看護師さんにお願いするのが面倒臭い。
ここだと、自動で後処理までやってくれるので気持ちがいい。
それだし、食事もし、寝たり起きたりする頭先に、これがあるのはなんとも気分がいらついて仕方がない。
さて、肝心の手術のことについては触れていなかった。と言うのも、私はまるきり、何をされたのかを知らないからだ。ということで、ドクターからの「手術説明書」からの要約で。「胸骨を正中で切開し、人工心肺装置を使用し心臓を停止させ、僧帽弁を人工弁に交換し、三尖弁は形成する」
僧帽弁というのは、カトリックのお坊さんがかむっている帽子の形に似ているのでこの名があるらしい。
この、僧帽弁を人工弁に取り替えている。三尖弁は形成すみ。
これが今回のメインの手術で、これでおしまいと思われていたのだが・・・。
今日の掲示板はこれ。「同じことでも「なんだこれしかできない」と不満に思う人「これだけはできた」と喜ぶ人 喜ぶ人が幸せへ」というもの。「3歩しか歩けない」と嘆くのか、「3歩も歩けた」と喜ぶかの違い。それが人生には大きなことで、1,000Kmしか歩けないのか、1,000Kmも歩けたと喜ぶのかみたいな差になって来る。人生は、そんな少しの差が大きな喜びに実って来るものだ。今回の入院で、しみじみとかみしめたことだった。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。