4月4日(水曜日)九日目
103-57-74 36.1 99 61.0
薄曇り。昨夜は痛みが少ないので、痛み止めが欲しいといえなくて、安定剤をお願いしたが、恒例の、11時半、0時半、2時半、3時半と4回のトイレで済んだ。あとは6時過ぎまで寝ていた。寝るしかないのだから、こんなに寝ていても誰も何も言わない。
6時半にもなったので、デイ・ルームに行って体重を計ってみた。61.05Kgということで、昨日よりも250g多かった。胸水のせいかなぁと思うばかり。確証は何もない。で、朝の恒例となった、リンゴジュースの氷入りを飲んでみた。氷水の冷たさが気持ちよかった。
今日は、実におしっこが出る。150ccほどの尿が20回以上は出ている。単純計算で3,000ccである。もっと出ているかもしれない。ここで、はたと思い当たった。【胸水が溜まっていないときには、おしっこがよく出る】ということだった。
確かに、尿の出方も回数も量もよくなって退院したら、すぐに我が家では、「おしっこが出ない」とブログに書いた。案の定、香川医大では胸水が目いっぱい溜まっていて教授を驚かせた。おしっこが出ないから「腎不全」と診断された。もとは、「胸水」なのだった・・・。そう、考え付いたならば、過去のいろんなことが、ハタと合点がいくではないか。
ここ(県立病院)で、肺をふくらませて、胸水のたまり場をなくしたら、行き場を失った胸水は腎臓に贈られて、尿となって排水されている。これでいいのだ。これでいいのだ。それだから、日浦Drは近寄らないのだし、外科部長も、5日の朝のレントゲン写真ばかりを気にしているのか。
だとすれば、「胸水」というものが克服されてしまったら、もう、ここにいる必要がないではないか。外科部長は、それを踏んでいるのかもしれなかった。看護師さんが、「この点滴は、明日のお昼でおしまいですよ」と漏らしたのは、そういうことなのかもしれない。
ただ、その肺の様子がいつまで続くものやら。いつ、胸水が復活することやら。ただ、そういう不安ばかりが押し寄せては来る。ま、心配ばかりしてても仕方がないことなのだけれど。
今日の掲示板はこれ。「死に支度 致せ致せと 桜かな」という小林一茶の俳句から。小林一茶の桜の句を探していると、こんな句も作っていた。 散る花やすでにおのれも下り坂/花さくや欲のうき世の片隅に/夕ざくらけふも昔になりにけり/ 死に支度致せ致せと桜かな。一茶の人生観の一端を垣間見るような句ばかりだ。この中で、特に最後の桜が、一茶に対し、「死に支度」をお前もした方が良いと 迫っているという句が気に入っている。滑稽味の中に怖さがあって面白い。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。