東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は11.9度から21.5度、湿度は82%から59%、風は2mから3mの南東の風が少しばかり。明日の13日は、前線や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから雨で雷を伴う所がある見込みらしい。
香川、東讃地方は、昔から土地が狭まいうえに水利は悪く、水稲耕作には恵まれた土地とはいえない状況下にあった。そこで、住民は農業だけに頼ることができなくなり、 天正年間(約400年前)に製塩業が起こり、寛政年間(約200年前)には、製糖業が起こった。いずれも讃岐三白の一つとして隆昌し、地域の生活を繁栄させたが、 明治に入り、外国産製品の輸入や技術の立ち遅れで衰退してしまった。加えて、白鳥神社に与えられていた朱印地という特権もなくなり、門前町としての賑わいと繁栄が姿を消すこととなった。
このような環境下に、手袋産業にとっての大恩人、 両児舜礼と棚次辰吉の両名によってもたらされた手袋製造の仕事は、地域にとって恵みの雨となり、しっかりと根づくこととなった。
明治19年、白鳥村にある千光寺副住職両児舜礼は、寺の近くに住む明石タケノに恋をし、大阪へと駆け落ちした。
生活費を稼ぐため舜礼は托鉢にまわり、タケノは隣家でやっていたメリヤス製品の賃縫いをはじめた。しばらくして、舜礼はこのメリヤス製品に着目し、托鉢をやめてメリヤス手袋の製造に専念することになるが、この年、明治21年が東かがわ手袋の誕生の年となった。
当時の手袋はてぐつ(手靴)といわれた指無し手袋で、一つ一つ型紙にあわせて鋏で摘み、手廻しミシンで縫うといった、まったくの手仕事で量産は困難だったが、 船場商人を通じてよく売れ、舜礼はメリヤス手袋製造業の将来は明るいと見て、家業とし拡大する決心をした。
明治24年1月、父の仏事に帰郷した際に舜礼は、 従兄弟の棚次辰吉(当時18歳)とタケノの親類筋の寺井カネ(当時18歳)と六車ルイ(当時19歳)を雇入れて連れ帰り、家業を拡大本格経営に移った。 しかし舜礼はその年の6月脳涙結昌病というめずらしい病気で39歳の短い生涯を閉じることになってしまった。
舜礼の急死後、従兄弟の棚次辰吉が、未亡人明石タケノを助けて遺業を継ぐこととなった。その後、実質的後継者として手袋製造業の経営をはじめた棚次辰吉だったが、干し大根でつくる「ハリハリ」だけがおかずの日々という苦闘の末、大阪における手袋産業の地位を築きあげることに成功する。
明治32年、棚次辰吉は故郷に錦を飾り、当時、衰退期にあった製塩業に従事する塩業民救済のため、松原村の教蓮寺住職楠正雄、村長橋本安兵衛の協力を得て教蓮寺境内に手袋製造所「積善商会(シャクゼンショウカイ)」を開設する。ここに初めて香川・東讃地区での手袋製造が始まることとなった。
手袋製造業の種をまき、育てあげることに情熱を注いだ棚次辰吉は、その後[軽便飾縫機]など新しいミシンを発明し、世界特許をとるなど、視野を広く世界に開き、欧米諸国を視察して先進技術の研究導入にも力を注いだ。ミシン以外にも セーム加工機、手の大きさ測定器など24種類にわたる特許権を取得するなど経営者としては勿論、技術者としても業界発展のために貢献し大きな足跡を残した。
種をまかれた手袋製造業は、その後も副業として着実に地域に定着するが、産業としての基盤を確立するキッカケは、大正3年に勃発した第一次世界大戦特需であった。
当時、世界の手袋はドイツが生産の中心国であり、素材の生産、供給と完成した手袋の販売機能を担っていたのがイギリスということで、その両国が交戦国になったため、日本へ戦争特需として大量の注文が入った。この特需に応えるため、最盛期1000人を超える社員が働き、大規模な生産能力を備えた大阪手袋(株)、東洋手袋(株)の2社が受け皿になって対応、家内工業からの脱皮の一つのキッカケとなった。
この本堂のすぐ横に、「手袋の始祖」とも仰がれている「両児舜礼」という人のお墓がある。元はこの地の塩田で働く農家の息子が岡山の両児山金剛寺に入って修行した。ここで、「舜礼」という名を頂戴して「両児舜礼(ふたご・しゅんれい)」という名になった。本名は、「棚次米吉」であった。31歳の時、この千光寺の副住職として戻ったが、土地のタケノという女性と駆け落ちし、大阪で苦労した。その時、メリヤスと手袋を知り、手袋の基礎を築いたが38歳で病死した。その手袋の芽は、タケノ未亡人といとこの棚次辰吉によって大きく成長し、東かがわ市の基幹産業にまで発展した。
今日の掲示板はこれ。「病気を治すのがお念仏の御利益ではない どんな病気をもむだにしない心がお念仏の御利益である」という太田祖電のことばから。お念仏とは「おまじない」や「呪文」ではない。お念仏を称えても病気を治したりお金持ちになったりはしない。どんな病気になっても、生かされているこの私の生き方を、無駄にしないことこそがお念仏のありがたいこころなのである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。