さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は今季初の13.8度から22.2度、湿度は82%から54%、風は1mの北東の風が少しばかり。明日の14日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。
先月の30日に予定されていた、「おへんろつかさ養成講座第三回長尾寺実地研修」が台風24号の影響で延期され、今日になった。今日はまた打って変わって快晴で雲一つない好天気。
今日の研修は、9時から9時半までは境内の説明から始まる。ここの説明は、観光ガイドの「長尾寺班」のメンバーが務める。
まずは、門前にあるこの「経憧(きようどう)」の説明から。経憧とは、写経を埋めた上に立てるもので、仁王門前に左右一対で立っている。東側のものには「弘安九年五月」、西側のものには「弘安六年七月」の銘があり、元寇の役の犠牲者のために立てられたものと見られている。重要文化財である。
この寺の仁王門に立つ仁王像は、大阪で造られ船で志度浦へ到着。志度から長尾まで陸路を運ぶ者がなかった。そこで当寺、長尾寺の住職だった名僧「桂同法印」が仁王さんに向かって心の中で念じた。仁王像は法印の命ずるまま長尾寺まで歩いたという伝説を持っている。
これが、長尾寺のクスノキ (ながおじのくすのき)で「香川の保存木」。指定名称 樹種 クスノキ 樹高 19m、 目通り幹囲 5.5m、 推定樹齢は不明。ここで、手水(ちょうず)のお作法を学ぶ。
本堂や大師堂の説明はあとの住職さんの説明にゆだねることで、この静御前の説明から。この「静御前剃髪塚」は、静御前が当寺で得度した際、剃髪した髪を埋めたという塚。静は母の磯野禅尼と共に得度した後、近くの井戸中代という所に庵を結び、義経形見の薬師如来を安置したと伝えられている。
菅原道真公が筑紫左遷の砌、ここの明印法師住職が志度房崎の沖に馳せ参じ「不期天上一円月。忽入海西万里雲」という歌を贈り、公は幼時の自画像をくだされ、この自在天堂に祠る。さらに屋島寺の覚遍法師等々名匠・硯徳相次いで往持したという。
その後、書院に移動し、座学となった。講師は香川県教育委員会生涯学習・文化財課の片桐孝浩氏の「さぬき市内の石像物について」という講義だった。
まずもって、「世界遺産登録とは何か」から始まって、長尾寺から大窪寺間の石造物についてのあらましとか、茶堂や庵などの建造物や丁石、道標などについての講義があった。丁石というのは、札所(お寺)までの距離を刻んだ目印の石標だったり石仏だったりする。高野山では「町石」と呼んでいる。いずれにしても距離を知らせるものである。
その後、11時10分からは長尾寺住職の木村俊雅師から、後ろの額について説明があった後、本堂に移動して、「仏教概論」や「長尾寺縁起」などについて、一時間の講義があった。
長尾寺は、聖徳太子の開創と伝えられている。古くより聖武天皇( 724)、天平11年( 739)に行基菩薩がこの地を訪れ、霊感を得られ柳の木「楊柳(ようりゅう)」をもって聖観世音菩薩像(三尺五寸、約1メートル)の尊容を刻み本尊とし、 堂宇を建立して安置した。大同年間( 806- 810)に空海上人が、当山にて年頭七夜五穀豊熟、国土安穏を祈念された。その後、空海上人が唐に渡る前にこの地を訪れ、護摩修法を行い人々に護摩符を授けた。唐から帰国した空海は、天長2年( 825)堂宇を建立し、第87番札所として定められた。
今日の掲示板はこれ。「教えてもらったものは忘れる。自分で盗んだものは忘れない」という小野二郎さんの言葉から。小野さんは7歳で地元の料理店に奉公に出た。その後、東京で修業。昭和26年(1951)に鮨職人となる。昭和40年(1965)に独立して、銀座の現在地にすきやばし次郎を開店した。 70歳で心筋梗塞を患って以降、禁煙している。手の保護のため、外出時は必ず手袋をはめているそうだ。寿司職人に限らず、サラリーマンでも農家でも主婦でもおなじこと。教えてもらったことはすぐに忘れる。学校で習ったことも忘れてしまう。でも、自分が苦労して体験して身につけたものは忘れない。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。