さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れる時もあったが、気圧の谷の影響で概ね曇っていた。気温は9.0度から17.3度、湿度は86%から58%、風は2mから4mの西北西の風が少しばかり。明日の2日は、はじめ高気圧に覆われて晴れるが、昼過ぎからは気圧の谷や湿った空気の影響で次第に曇る見込みらしい。
108/68-64 36.4°C-98% 65.4Kg 1020hPa,10°C,54% 体調は良好。やる気満々。
昨夜のBSテレビの「武田鉄矢の昭和は輝いていた」を見るでもなく見ていたら、興味のあるお話だったのでしばらく見ていた。
ということで、お話は「ホッチキス」の話だった。ま、ホッチキスというのはこれを考案した方の名前で、正式には「スッテプラー」といい、会社名は「MAX」である。
ホッチキスの発明者として考えられている人物の1人が、機関銃の発明者でもある「ベンジャミン・B・ホッチキス」である。機関銃とホッチキスはあまりにも隔たりがあるように感じるが、マシンガンの弾送りをヒントにホッチキスの機構を考え出したと言われている。
実際に、平成元年(1989年)に日本テレビ「謎学の旅」がホッチキスの発明者を明らかにするため、ベンジャミン・B・ホッチキスの出身地である米国コネチカット州を訪ねたことがあった。現地の方の話によると、驚くことに弾送りと針送りの機構がバネをもとに考えられている点でまったく同じとのこと。やはり彼が生みの親か?と、取材スタッフは色めき立ったのだが、残念ながら文献などによる証明はできなかったという。
で、我が家にある「スッテップラー」を探してみると、このようなものがあった。
初代は、昭和30年代に発売されたもので、新しがり屋の親父が農作業用かに使っていたもの。スイカやかぼちゃの育苗ポットをつくるのに、経木(へぎ)をこれで留めていたように記憶していた。
これも時代もの。マックス(株)は、創業時に山田航空工業(株)と称し、零式戦闘機の尾翼部品メーカーとして昭和17年(1942年)に発足した。戦後、新発足にあたり山田興業(株)と社名を改め、「平和産業に徹し、文化に貢献する」を掲げて、向野氏からホッチキスの製造技術を引継ぎ、終戦から半年後の昭和21年(1946年)には早くも「ヤマコースマート」(3号ホッチキス)の生産を開始した。
これは中綴じができるタイプのもので、まっすぐすれば普通に使える。
最新式のもは、このVaimo11で、マックス社員が出張で利用した新幹線の中、スーツ姿の女性が卓上ホッチキスを使い、肩で息をしながら何冊もの冊子を作成している場面に遭遇したことがきっかけで誕生したという。卓上型ではなくても、簡単に片手で40枚もの用紙を閉じることができる。
さて、今日のお昼もところてんに梅がゆである。でも、今夜の忘年会のごちそうがみになるところ。
宴会用の冷蔵庫にはお飲み物がどっさり。
このお鍋は飾り用。で、私一人で湯豆腐を楽しむつもり。
こちらの鉄瓶は、灰が少ないからか炭火の回りが遅い。これでは日本酒のお燗はできぞうにもない。
今日の掲示板はこれ。「明日の人生はきっと何かあるものです。きょうの苦しみはきょうで終わり。明日の苦しさは明日の話」という吉田潤喜さんの言葉から。吉田潤喜 (全米にてヨシダソースで有名な日本人/ヨシダグループ会長兼CEO)さんの言葉である。苦しみを翌日に持ち越さない習慣をつけられると良いものだけれど。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。