さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は14.1度から17.2度、湿度は78%から66%、風は1mから4mの東北東の風が少しばかり。明日の6日は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから雨が降る見込みらしい。
126/63-61 36.3°C-97% 65.8Kg 1018hPa,20°C,68% 天気のせいか、身体が重いような気がする。
北海道からのお歳暮も進化してきていて、最近は切り身で、それぞれが真空パックされている。最初は鮭一匹丸ごとが送られてきて、頭の部分を切り落とすのが大変で、大きな包丁を当てておいて、上からハンマーで叩くのだが、まかり間違えば包丁が手のほうに飛んできて危ない思いをしたことがあった。
今朝の朝食は「紅まどんな」とクリームスープ。紅まどんなは、南香と天草の交配品種。たいへん薄くてやわらかい外皮とじょうのう膜(薄皮)を持ち、果肉もゼリーのようになめらかで果汁たっぷり。糖度が高く酸抜けも早いことに加え、大玉で紅の濃い美しい外観から、年末の贈答品として人気が高まっているらしい。
朝の間は、年賀状データの整理。今年も多くの方がお浄土にお帰りになった。世帯主や住職の変更などでのデータの書き換えもあった。これも自然のありようだから致し方ない。
親戚筋の名前もすっかりと変わってしまい、叔父さんや叔母さんは数えるほどしかいなくなった。それも片手で足りてしまうほどだ。
さて、朝ドラが終われば、昨日話題になった、護摩山周辺の現地を見てみたいと思い立って出かけてみた。
結願の里(多和産直 結願の郷・天体望遠鏡博物館)の南側にある、美しい山が護摩山(標高433m)である。この山は、弘法大師ゆかりある山でもあ、昔、僧空海が四国巡礼の際に、この地を通った。その時に、護摩山が異様な光を発しながら鳴動し、地元の人たちが恐怖におののいているのを見て、僧空海はこの鳴動を鎮めようと、護摩山へ登った。そして岩場で護摩を焚き、麓の小庵(のちに一夜庵と呼ばれる)で一晩中祈り続け、鳴動を鎮めたという。
また、僧空海は、大窪寺を建立する場所を決めるにあたり、護摩山に登り、東の朝空を眺めたところ、紫色の雲が広がり霊気に満ちているのを感じ「あれこそ天与の地」と言って喜び、そこで、現在の大窪寺の奥の院がある場所に「大窪寺」を建てたと言われている。
この、金刀比羅神社は、護摩山の中腹にあり、多和の氏神を祀っている。多和は、古くから、さぬき市長尾名(ながおみょう)にある宇佐神社(長尾八幡宮)の氏子であり、同社は長尾地区の総鎮守と称して氏神であった。しかし、多和は、山村で遠かったため、別に金比羅権現を歓請したのだと言われている。また、大正時代に、多和地区内の各集落にそれぞれ祀られていた、多くの山の神(山神社)を、金刀比羅神社に合祀したともいわれている。
護摩山の西側の細い道を走って、「弁慶の力石」まで行ってみた。
源平合戦時、徳島から屋島に向けて源平一隊が通った際に、弁慶が兵士たちの士気を高めるために持ち上げたといわれる石。この石の重さは、何と800キログラム。まさか、まさかの力石である。
歩くルートをたどりながら、観光ポイントやガイドポイントなんぞも探しておく。
こういう石仏が、大窪寺までの距離を示す「丁石」と言われているもの。これで、「ああ、大窪寺まで76丁(1丁は109m)だな・・」と分かるようにしてあるもの。
今日の掲示板は意味もなくこれ。「見てくればかりを気にしても 人の値打ちは中身で決まる」というもの。原典を探してみたけれどわからない。確かに、若いうちはみてくればかりを気にして 髪型を変えてみたり、服装をいろいろと変えてみたりしたけれど、所詮は中身の問題だなぁと諦めたことがあった。しかしのかかし、中身を変えようとしても変 わることがないのだから、やはり、見てくればかりを気にせざるを得ないというのも事実なのではあるまいか・・・。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。