さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが。気温は2度から11.7度、湿度は82%から54%、風は1mから5mの西南西の風が一時は強かった。明日の26日は、冬型の気圧配置が強まるため曇り、明け方から朝にかけて雪や雨となるらしい。強風や高波、26日明け方から大雪のおそれがあり、明け方から夕方にかけては雷を伴う所がある見込みなのだとか。
122/74-64 36.5c-98% 60.2Kg 1018hPa,4c,68% 体調はすこぶるいい。今日は奥方がお休みだというので7時まで寝てしまっていた。
奥方がお休みだというのでは出かけられない。そこで、先日に調べた道標の整理をやっておいた。早めに記録としてまとめておかないと、記憶が飛んでしまって忘れてしまうのである。
で、合間に休憩を入れながらの作業になった。
ところが、どういう形式でまとめたらいいのかがわからなくなってしまって、あれこれと、文書を探し出して書いたり消したり、別の論文形式に書き直したり。そうこうするうちにワードが使えなくなったり、画像がうまく回転できなくなったりとトラブル続き。
地図をどうしようかと考えたり、
このデーターは正しいのだろうかと考え込んだりと、少しも前には進まない。やる気スイッチが入っていないのか、接触不良なのか。
この手のひらは止まれなのか、「さあ、どうぞ」と言う意味なのかとか。どこかで聞いたような記憶があるのだが思い出さない。
秋田からやってきた九兵衛さんは、何を思って、お遍路が盛んになる前に、ここに道標を建てたのだろうか。その頃はまだお遍路さんは多くなかったはず。
こんな小さな道しるべだって、お金がないと建てられない。何かの意味がなければ建てられない石材なのである。そこに思いが至らない。
中務茂兵衛は、本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)4月30日に、周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村 (現山口県久賀町椋野)の庄屋中司家の三男として生まれた。22歳の時に家を出て、四国八十八箇所巡拝を始めたと言われている。以来二度と故郷には戻らず、生涯巡拝の旅を続け、そして最後となる78歳の巡礼で、6か月余りかかってたどり着いた結願の大窪寺を目前にして病に倒れた。実に280度目の巡礼だった。最後は、彼のよき支援者であり信奉者でもあった久保ちか子宅(現:香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろし大往生を遂げた。時に大正11年(1922年)33月200日午前1時であったと言われている。
彼の残した道標のひとつに刻まれた、『生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり』という句は、自らその生涯を詠み上げているかのように思えるのである。彼の道標建立は、厄年の42歳のとき、巡拝が88回目になったのを記念して始め、以後多数の道標を建立し続け、100度目からは『義教』の法名を刻むようにもなった。その道標の特徴は、ほとんどが大型(道標高の平均約124cm)であり、刻字に彼の出身地である『周防国大島郡椋野村』と、建立の年月、巡拝度数、茂兵衛義教の氏名・法名を刻んでいることである。また、道標には珍しく句歌を刻み、『迷う身を教へて通す法の道』という句を好んで選んでいる。
今日の掲示板はこれ。「上手くいくためには成長するしかない 成長するためには失敗するしかない 失敗するためにはやってみるしかない。」というもの。どこの誰の言葉かはわからない。今日の観光ガイドマニュアル作りもそうだった。何度やってもダメだった画像回転ができたり、画像の加工がうまくいかなったのができたりと、とにかくやってみなければ失敗か成功かはわからない。成功したら成長する。成長していけばうまくいく・・ということは実感できた。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。