さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は14.5度から24度、湿度は80%から45%、風は1mから3mの南西の風が少しばかり。明日の3日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。
125/83/58 36.3c-97% 61.4Kg 1009hPa,24c,70% 初夏の陽光になった。「晴~れた五月のなかぞ~にぃぃ♪・・・」という初夏らしい朝だった。
昨日の「へんろ資料室展示室」のガイドマニュアルの補足がやりたくなって、今日は予定外に前山に行ってきた。
別に、誰に頼まれてやっている訳でもない。これを作ったからと云って、誰かが喜ぶ訳でもない。
おへんろ交流サロンに行くと、私たちの「交流サロン支援班」というアシスタントが四名いて、おへんろさんのお接待なんぞをサポートしている。ふむふむ、熱心なお方がいるものだなぁと感心した。私はどうにも、こうしたお接待は苦手なのだ。
この反対側に、こういう「へんろ資料展示室」という展示スペースがあって、おへんろに関する資料、およそ一千点を保管・展示してある。私たち「大窪寺班」は、ここからガイドを開始する。
この左半分が展示室である。ここを、30分から1時間コースで案内して回るのである。
ま、ガイドする方、それぞれの得意分野があって、ガイドの方法もさまざまだが、案外と、このコーナーはスルーされてしまう。このお方こそ「四国遍路の父」、「四国遍路中興の祖」「四国霊場の生みの親」ともいうべき高野聖「真念」さんのコーナーである。四国霊場88カ所は、この方が書いたガイドブックに掲載されて有名になった。それまでは、思い思いに好きなお寺を回っていたのを、この「四国遍路道指南(みちしるべ)」で1番から88番に番号を振ったことから定着したとされている。
中司(中務)茂兵衛は、1845年(弘化2年)に山口県に生まれ、22歳のころ四国に渡って以来遍路を続け、1922年(大正11年)、280回目の終わり近くに76歳で没するまで故郷に帰ることはなかった。42歳のとき、巡拝が88回目になったのを記念して道しるべの建立を始め、その道しるべは遍路道沿いに今でも230基余り現存している。まさに四国遍路の鉄人、四国遍路の大先達である。でも、時代が江戸後期から明治にかけての人だったから、歴史的にはあまり有名な人ではないとされている。
さすがに十連休だからか、春遍路なのだろうか、歩き遍路の方がやってきている。それを「支援班」の方が応対し、お接待している。
江戸時代は旅に出るときは、身分証明と旅の目的を明らかにするために、旦那寺や庄屋などが往来手形を発行して、旅人はそれを見せて関所などの通過が出来た。この「捨て往来手形」は旅の途中で病死したら、その場で葬り、その在所に連絡もしなくてよいと書かれている点に特徴がある。いわば在所から捨てられたようなもので、「捨て往来‥‥」と名が付いている。本人にとっては遺書のようなものであった。
これは、その「捨て往来」をわかりやすく書いたものである。私は、こういうものが得意なのである。
こちらは空海さんのコーナーであるが、私はいつもスルーしてしまう。
こちらは、私たちが何年もかかって調べた収め札のコーナーであるが、案外と皆さんは興味なさそうに通り過ぎてしまうのが寂しい。
話題になっていた「十連休」だが、早くも半分以上が過ぎてしまった。今日の掲示板はこれ。「楽しみでどんなにごまかしてもごまかしきれないこの身が残る」というもの。私も毎日毎日、東に西にと走り回って忙しそうにはしているが、毎日を、目の前のことでごまかしながら、一生懸命生きているようにしている身かも知れない。でも、今の私が、本当にすべきこととは何だろうか。我が身、我が心を鏡に照らして見つめられるように、目をそむけないようにしながら走り続けたいものである。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。