さぬき市地方は台風第19号の影響で曇り、夜は雨の降る所がある見込みらしい。気温は21度から26度、湿度は92%から72%、風は0mから2mの北東の風が少しばかり。11日夜のはじめ頃から強風や高波に注意するよう呼びかけている。明日の12日の香川県は、台風第19号の影響で朝から昼過ぎにかけて激しく降る所がある見込みで、雷を伴う所があるらしい。
119/58/59 36.4c-96% 64.2Kg 1005hPa,26c,54% 数字的には問題ないが、おなかが張るし、身体が重い。何がなんしてなんとやらだ。
上がり三ヶ寺+1総合ガイドブックを作成しているが、どうにも写真がまずい部分があって、87番札所の長尾寺さんに行ってきた。困ったときには、「現地に行こう、現物に触ろう」である。
長尾寺の本堂の向背である。ここに妙な彫刻がある。
ほうきと巻物(経典)の彫刻である。お釈迦様のお弟子さん 周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)のお話である。仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていたのが、この周利槃特という人だった。お経の一言も覚えられず、自分の名前を忘れてしまうほどの愚か者だった。周りの弟子達からバカにされていた周利槃特は、あまりの自分の愚かさを嘆いて、仏弟子をやめようと思って仏陀のもとを訪れた。
「仏陀よ、私はあまりに愚かなので、もうここにはいられません・・・」その時、仏陀が彼にこう言った・・・「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である」すっかり弟子をやめようと思っていた槃特は一瞬キョトンとしているばかり。そして、仏陀はこう続けた・・・「おまえの一番大好きなことはなんだね?」槃特は、「はい、私はそうじが好きです」と答えた。「そうか、おまえは多くのことを憶えられないようだから、その大好きなそうじをしながら、このように唱えるがよい」「塵を払い、垢を除かん」「塵を払い、垢を除かん」仏陀にそういわれて、嬉しくなった槃特は、たまに忘れそうになりながらも、「塵を払わん、垢を除かん」と唱えながら、箒をもってそうじをし、一年、二年、五年、十年、二十年と、ひたすらにやっていく。
その姿勢に、始めはバカにしていた他の弟子達も、次第に彼に一目を置くようになっていく。やがては、仏陀からいわれたことを、ただ黙々と、直向きに、淡々とやり続けるその姿に、槃特を心から尊敬するようになっていくのだった。そして、ついに槃特は、仏教でいうところの「阿羅漢」の境地に到達した。ある日、釈尊は、大衆を前にしてこう言った。「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。」「見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか!・・・。」
さて、話は一転する。ここをガイドする時、向かって右の「静御前剃髪塚」は必ずガイドするが、真ん中の大きな石仏や左の奇妙なお社みたいなものには誰も触れない。これを長尾寺班の方に聞いても分からないという。それではダメじゃん春風亭柱昇。
この地蔵菩薩像は「興亜地蔵尊」と刻まれていて、「皇紀2603年5月為報恩」と刻まれている。興亜戦争(大東亜戦争)の犠牲者を悼むためと「報恩感謝」のために皇紀2603年(1943)5月に氷上村(現三木町)の中川九一氏が寄進したものである。
一方、こちらは、「ラヂオ塔」と呼ばれたもので、ラジオ塔とは、ラジオの普及を目的として公園などに設置されたラジオ受信機を収めた塔である。正式には、「公衆用聴取施設」という。香川県では、塩釜神社(三豊市仁尾町)に昭和10年(1935)と、長尾寺(香川県さぬき市) 昭和18年(1943)に広島中央放送局から寄進されている。その2年後の昭和20年8月には原爆投下によって「広島中央放送局」は破壊され、電波を一時停止している。共に、昭和18年に寄贈設立されたものである。
あと何ヶ所かの写真撮影をして戻り、原稿を追加したり、修正したりしていた。
これで、一応、ページ数も合わせたりして「長尾寺編」は完成した。
これで、さぬき市の「上がり三ヶ寺」分は完成した。しかしのかかし、一寺で12ページだから、36ページにしかならない。両面印刷しても18枚ではペラペラだ。
そこでやめておけばいいものを、今度は、その途中にある「おへんろ交流サロン」のガイドブックまで含めることにした。というのも、大窪寺班では、ここをガイドしておいてから、旧遍路道をガイドしながら大窪寺に向かうことがあるからだ。だから、大窪寺班用の「遍路資料展示室マニュアル」というのはある。それを、A5版からA4版に移し替える作業である。
でも、さすがに何日もになると飽きてきた。今日はここいらで休憩だ。
今日の掲示板はこれ。「人は 幸運の時には偉大に見えるかもしれないが 真に向上するのは不運の時だけである」という、フリードリッヒ・フォン・シラーの言葉から。フリードリヒ・フォン・シラーは「シルレル」とも読まれている。18世紀ドイツの詩人・戯曲家・思想家で、1759~1805。シラーさんは劇作家として有名だが、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞で最もよく知られるように詩人としても有名。彼の書く詩は「ドイツ詩の手本」として、今なおドイツの教育機関で教科書に掲載され、生徒らによって暗誦されている。人は、幸福期の絶頂にあるときには偉人にも見えるけれど、人が成長するのは不運の時期にどう生きるかであると言うているのである。今、日本ではノーベル賞受賞に沸き立っているが、吉野彰さんは今、絶頂期にあるけれど、彼が苦しく悩ましい時代を懸命に生きてきたことには余り目を向けない。苦しいけれど、ゴールは必ずあるのだと、懸命に歯を食いしばって耐えてきたからこその喜びなのであろう。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。