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原爆忌今年は蝉も黙祷し

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は24.2度から31.4度、湿度は98%から68%、風は0mから2mの北東の風が少しばかり。明日の7日のさぬき市地方は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 106/41/80 35.8c-96% 59.8Kg 24.2c-84%-1008hPa 体調に全く問題はない。

 

 今日は奥方のお休みの日。だから起きるのは7時前で朝食は7時半過ぎになった。もっとも、私は4時半にはすでに起きているのだが、一階には降りないでいた。

 

 だから、自分の書斎でテレワーク。お役所からはさまざまな調査表などが送られてくるので、できることからコツコツと・・・。早くも来月9月21日は敬老の日である。現在の敬老の日の由来は、1947年兵庫県多可郡野間谷村(現在の八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりとされている。当時、村では「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という主旨のもと、1947年から農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開くようになっていた。

 

 これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、1954年には国民の祝日として制定され、全国で祝うようになった。しかし、「としより」という呼び方はどうにかならないか、ということで各方面から異議が起こり、「老人の日」にいったん改名されることになった。 やがて「国民の祝日法」が改正されることとなった1966年、「建国記念の日」「体育の日」と共に国民の祝日と制定された際に、現在の「敬老の日」と名称が改められ、その後、2001年(平成13年)にハッピーマンデー制度の施行に伴い、日程の変更が生じ、それまで定着していた「9月15日」から、「9月の第3月曜日」への移行されている。

 

 さて、今日は広島の原爆忌。広島では恒例の「平和記念式典」が行われ、松井一実市長は日本政府に対し、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約に参加するように求めた。広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、安倍総理大臣のほか、83の国の代表などが参列。

 

 式典ではこの1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、合わせて4943人の名前が書き加えられた32万4129人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められた。そして原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげ、全国でも多くの人々が黙祷をささげた。

 

 私は、9月頭に行われる「ひとりぐらし老人の調査」や85歳以上の高齢者世帯の調査票の確認などをやっていた。これを元にしてひとりぐらしの高齢者宅を訪問して安否確認や相談事などをお聞きするのである。

 

 奥方は歯医者に行くとか食材を仕入れるためとかでお出かけしてしまった。「お昼はおそうめんよ」と言い残して出て行ったので、いつものような野菜たっぷりさわやかそうめんと野菜サラダ付きである。

 

 テレビなどでは高温に注意とか35度越えとかにぎやかだが、我が家は静かで平穏そのもの。蝉の声すら聞こえない。風はやさしくそよそよと、木陰では半袖では肌寒いくらい。でも朝方にはヒグラシが騒がしく啼いて起こされたし、夕方にはツクツクボウシやヒグラシの声でにぎやかになる。まだ、虫の声は聞こえない。

 

 さて、夏休みの自由研究というほどでもないが、私の身体はいつ頃からおかしくなったのか・・・という調査をやっている。これは、私の10年日記というもので、ここには何年の何月何日には何をした・・・ということがメモしてある。これで検索して、私のブログの何年の何月何日のページを開くと詳細がわかる仕組みになっている。ちなみに、上の表の黄色い部分は入院期間である。

 

 それから抜粋して、病歴年表を作成している。これを元にして私の闘病記録を考える論文にまとめようとしている訳である。

 

 これが昨年版の闘病生活から考えた「胸水貯留による心不全症候群に関する対策と社会民俗学的考察」という論文集である。今年はこれの続編版を考えていたのだが、「実は・・・胸水の問題ではなくて、尿の問題だった・・・」というどんでん返しがあって、この論文集は全くの「ゆめまぼろし物語」であることがわかったのだ。だから、今年はこれを大幅に修正する作業になっているという訳である。

 

 今日の掲示板はこれ。「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く」というもの。松本善三作詞 佐藤勝作曲 美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」という歌からである。朝日新聞の投書欄「声」にたびたびこの曲についての投稿が載っているという。時々、この歌は聞くことがあるが、改めて歌詞を読んでみて感激した。昭和49年8月9日の第一回広島平和音楽祭で実行委員長の古賀政男さんの プロデュースで書き下ろされたものという。 その後、昭和63年の第15回広島平和音楽祭でも歌っている。62年に福岡で倒れて緊急入院。63年4月の東京ドーム公演で不死鳥のように復活し(白いフェニックスのような衣装が印象的だった)、翌年2月からツアーを再開したものの、2月7日の小倉公演の終了後に倒れて、6月24日に帰らぬ人となった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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