さぬき市地方は、湿った空気の影響で概ね曇り、雨や雷雨となる所があるらしいが、その気配はまだない。気温は26度から35度、湿度は88%から68%、風は1mから6mの東南東の風が一時は強かった。明日の28日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れるが、午後は湿った空気の影響で概ね曇り、雨の降る所がある見込み。
103/52/79 36.4c-96% 59.6Kg 28.3c-70%-1007hPa 身体の変化はない。でも、昨日は介護ベッドを交換したためか、枕の位置が高かったのか、安眠まではいかず、ほぼ、1時間ごとにトイレに行ったために寝不足気味で頭が重い。
そうは言いつつ、午前6時を過ぎると体内時計が調節できたものか眠気もなくなった。で、今日の予定は、集落内の「橋梁点検の検査立会」が一件と、我が家の空き瓶改修が一件だけ。今日も夏休みの自由研究だが、これは「課外」みたいな、「あ、そうだったんな、お大師さん」の原稿書き。
今年のさぬき市観光ガイドは、ほとんどが「中止」状態。ガイドの養成講座も、さぬき市の88ウォークも中止だから、何か一つでも事業らしいお仕事をやっておかなければならない。来年三月の、「柴灯大護摩供」とルンルン♪事業は予定通り進める方向。それまでのつなぎ事業が欲しいところ。
昔、私の会社の社長が、「習って覚えて真似して捨てる」という言葉で有名になった。私たちはそういう言葉尻だけを捉えて、すぐに、「習って覚えて真似して捨てる」を悪用するこばかりを考えていた。また、そのお友達だった人が、「知恵ある者は知恵を出せ。知恵なき者は汗を出せ。それもできぬ者は静かに去れ」と言って波紋を巻き起こした。松下幸之助もあきれて「あ、潰れるな・・・」と言ったそうだ。
その後の社長は、「お客様第一、上司は二の次」と言い出して喝采を浴びた。「現地に行こう、現物に触ろう」というフレームズも脳裏に刻まれている。だから、今日も現地に行ってきた。現物に触ってきた。
この言葉(句かな)の「三寸減りし」は覚えているのだが、上の句と下の句が思い出せなかったのだ。そこでさぬき市前山まで走って行ってきた。もちろん、車でである。
「打ち終へて」というのは、札所を回り終えて・・・という意味である。四国八十八ヶ所を回り終えると、お大師さんと頼んですがってきたお杖(金剛杖)が三寸も減ってしまったよ・・・」という句である。一寸は約3.3センチ、三寸で約十センチである。
で、できあがったのが、この原稿である。こんな風に、大窪寺ガイドができないだろうかというたたき台である。
あと、写真にするか、イラストにするかは追って考えることにして、一応は流れを押さえておきたいものだとやっている。
ところが、QRコードがうまく載ってくれない。実際のコードはちゃんと認識できるのだが、原稿に貼り付けるとうまくいかない。貼り付け方の問題ではあるらしい。
今日のお昼はこれ。サンマの味噌煮と野菜ぶっかけうどん小のそのままと野菜サラダ付きである。自分ではヘルシーだと思っているのだが、おなかもすぐに「減るしぃ~」でもある。★注(そのまま・・というのは、温めもせず、冷やしもしない、そのままの状態)
夕方の16時前からにわかに雷鳴がとどろき、大粒の雨が降り出してきた。大慌てで全ての窓や引き戸を閉めて回り、濡れるものはみな、片付けておいた。降る、降ると言いながらなかなかに降らなかったが、ようやくのことで、雷雨になった。野菜たちは一安心だろうと思っている。
今日の掲示板はこれ。「ありがとうと心から喜べぬ ごめんなさいと心から恥じることもできぬ 今日も如来のご苦労が身に染みる」というもの。これまた、どこのどなたの言葉かは分からないのだが、親鸞聖人は自身の在り方を直視されて、
愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近づくことを快しまず『教行信証』親鸞聖人(真宗聖典251頁)
と、ごまかすことなく正直に述べられている。また『歎異抄』では、
念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり『歎異抄』(真宗聖典629頁) と、ここでは親鸞聖人ご自身も唯円と同じく「念仏申しても歓喜のこころが湧いてこないし、浄土へ往きたいというこころもない」とまで言われるのである。勿論これらは開き直っているわけでも強がっているわけでもないのだろう。念仏申しながらもいつの間にか善人になったように思い、本当の自分から目を逸らし、ごまかしながら生きているのが私たちである。ある意味、私たちは自分から目を逸らしている方が楽なのかもしれない。醜い自分の姿を見たくはないではないか。なんと強情な私たちであることか。なんと傲慢な私たちであることか。それでも親である如来は私たちを「いとおしい」「いとおしい」と見守っているのである。そんな親心を知っていながら、それでもまだすなおになれぬ私たちであることか。まるで反抗期の青年時代みたいではないか。 じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。