さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は8度から17度、湿度は78%から46%、風は2mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の10日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。
119/72/78 36.1c-98% 64.4Kg 17.5c-45%-1023hPa 体調に変化はないが、眠たくて仕方がない。いつも通りに21時には寝て、朝は6時に起きたのだけれど。
さすがに今日はダム一周コースに向かう勇気は出なくて、集落内一周の散歩になった。
昨日の半分以下の3341歩になったが、それでも夕方には8500歩くらいになると思う。ま、一気に歩かずに、ゆっくり目くらいがちょうどいいかも。
主のいなくなったお隣さんちの庭先にはタンポポや雑草が茂りだした。自然の力は時に不気味なほどに強靱になる。
今日は奥方の誕生日だからと、タケノコでもないかなぁと旧宅のお墓に行ってみた。すると、お墓の敷石が少しばかり浮き上がっているように見える。
そこで、この敷石ブロックをめくってみた。
すると、こんなにもかわいいタケノコが・・・。でも、これを放っておけばお墓が竹林になってしまう。そこで、かわいそうだが、このタケノコを掘り上げてしまった。
すると、こんなにもかわいいタケノコになってしまった。
あたりは、イノシシがタケノコを掘って食べてしまっている。
で、おわびに、ワラビをどっさりと採ってきた。これを湯がいて冷凍保存しておくのだそうだ。
今日も代わり映えのしないおうどんのお昼になった。今日は普通の讃岐うどんである。
奥方は何やら野菜苗を買ってきて、野菜を植えるのだと畑仕事に夢中である。
今日の掲示板はこれ。「散る花や すでにおのれも下り坂」という小林一茶の俳句から。一茶の人生観の一端を垣間見るような句である。この句を読みながら、つくづくと感じるのは、自分の感性を高みに置かず、取るに足りないひとりの人間として、花を傍観して得た素直な感情を句にしていることである。人間は死への存在であり、死を意識する動物である。しかし、普通に考える死は単なる知識であり観念である。しかし、それが現実の自己にかかわる死ということになってくると、そういうわけにもいかなくなってくる。「散る花やすでにおのれも下り坂」不安を隠しきれない句に読める。「白露やいつものところに火の見ゆる」秋の露ははかなくも消えるもの。「いつものところ」とは在所の火葬場のことであろう。「火の見ゆる」とは人を焼く火であろう。なんとなく寂しい人生のたそがれ、死を間近にした心境である。一茶が晩年とくに信心深い生活を送ったと聞いているが、それは人間的な価値が、いかにむなしいかを知っていたからだと思われるのだ。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。