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Channel: まほろば自然博物館
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梅雨さなかこどもの頃の夢ばかり

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 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は20度から27.3度、湿度は88%から66%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の18日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから断続的に雨が降る見込み。

 

 111/64/79 36.0c-98% 65.8Kg 23.2c-73%-1004hPa 体調に変化はない。

 

 今朝は4時半に目が覚めたが、曇っているせいか、まだ薄暗かった。それでも寝て居られないので起きてパソコンをいじっていた。奥方が5時に起きたので、電灯も付け、テレビの電源も入れた。まぁ、普通の生活だったような気がする。

 

 で、ホームセンターに出掛けてみた。

 

 で、たなばたセットを買った。今週末の私の誕生日会の飾りである。別に深い意味はない。

 

 昨年は、こうしたたなばた飾りになったので、今年も同じようにしてみようと思い立っただけのことである。別にこどもがいる訳でも、童心に返りたかったわけでもない。

 

 で、先日から奥方が「また、野菜を食べられたのよ」とご機嫌が悪い。ようやくに実が入り出したトウモロコシをかじられたと激怒している。それを私に言われても、私はどうしようもないというものだけれど。でも、なんとかしないと奥方のご機嫌が悪いので、こうした「防鳥ネット」というものを買った。

 

 効果があるかないかは問題ではない。私がどんなに苦労しているかを示せればいいと考えたからである。

 

 で、作物の野菜の上に、こうした感じで網を張ろうと考えたのである。

 

 だと、空からは鳥が侵入できないという計算だった。

 

 ところが・・・である。お昼前からは晴れてきて、気温が急上昇してきたのである。このオレンジ色が防鳥ネットであるが、張り始めて間もなく、めまいがしてきて歩けなくなった。脂汗が吹き出してくるし、足ががくがくと震えだした。「あかんがな・・、熱中症になったらアウトやで・・」と、作業を中止して、ガレージの日陰に這いずるようにして逃げ込んだ。その時のバイタルサイン。98/38/80 36.8c-93% 血圧が異常に低くなっていた。

 

 雲間から夏の青空がのぞいている。「パワーがないなくなったなぁ・・」ということで、梅シロップと生玉子を呑み込んで作業はやめにした。今から寝込んだら、私の誕生会が駄目になってしまう。奥方も娘も弟たちも、計算して手料理や食材を準備してくれている。

 

 ということで、冷房の効いたマシン室で、新しいプリンターを使っての観光ガイドマニュアル作りをスタートした。新しいプリンターの機能に慣れる意味もある。カラーの原稿を、モノクロ両面連続印刷の実験もやった。カラー版両面印刷もやってみた。新しいプリンターはすなおに動いてくれた。

 

 今日はここまで出来たらOKだ。来週から本格的に印刷・製本を開始する。

 

 今日の掲示板はこれ。「死にむかって進んでいるのではない。今をもらって生きているのだ」という鈴木章子さんの言葉である。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板から。鈴木章子(あやこ)さんは、北海道の真宗大谷派西念寺の坊(ぼう)守(もり)(奥様)だった。42歳の時に乳癌が見つかり、その後肺などに転移し、5年間の闘病生活の後、昭和63年に47歳で命を終えられた。章子さんは闘病中に四人の子供達へ詩を残されている。

『変換』

死にむかって進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が
今生きている
ひき算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています

“いのち 日々あらたなり”
うーん 分かります

 さて、章子さんはここで、「ゼロ」と言われているが、ゼロとは何だろうか。私達の全ては全て貰ったものである。それが私達のような仮の形と成って存在しているだけのこと。時には病気や、怪我や、老いや、死とも出会ってしまうことになる。全てが関係性において変化しているので、「これが私と言える確かな実体(自性)」など有り得ない。それが章子さんの言われた、「ゼロ」の意味である。ところが私達は実体が有ると思い込んで固執してしまう。この固執を、「我執」と言うのである。釈尊は真理に暗い私達に、この我執を崩壊させる為、ゼロを知らせる道理を説かれている。それを「縁起」と言うのである。章子さんはこの「縁起」を「ゼロ」と言い換えている。そして章子さんは末期癌の為に命終してもおかしくない私が、今、まさに生きるご縁を貰ってこの瞬間に存在している感動を、「今ゼロであって当然な私が今生きている」と表現されたのである。そして章子さんは、「ひき算から足し算の変換」と喜ばれている。私達は平均寿命まで、いやそれ以上生きたいと思うこともあるだろう。しかし、いのちは縁起するので、他との関係性により存在し、関係性が無くなれば全て無くなってしまう。今、存在していることが、「今を貰っている」証明である。それを章子さんは、「ひき算から足し算の変換」と言われたのである。釈尊の教えを聞いて、章子さんが言われた、「いのち日々あらたなり」と実感出来る存在に、「変換」されることが、生きる意味だと思うのである。それは“今日一日限りのいのち”として受け止められるからこそ、与えられた仕事や使命などに、完全燃焼する意欲が生じるからである。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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