3日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇り、午後は雨や雷雨となる所があるらしい。気温は25度から31.1度、湿度は88%から70%、風は1mから2mの東の風が少しばかり。明日の4日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしいが、湿った空気や強い日射の影響で、夕方は雨や雷雨となり、激しく降る所があるらしい 。
104/62/79 36.1c-98%-61.4Kg 25.1c-81%-1006hPa 体調に変化はない。
朝方は曇っていて比較的動きやすくて、例の「旧へんろ道」に関するレポートをまとめていたが、ページの下部にページ番号を挿入したとたんにレポートの文章が飛び跳ねてしまった。テキストボックスというものが関係しているらしいが、具体的には何がどうしてどうなるのか・・・ということは理解できていない。
で、気になっているのが「下星越峠」というところである。上の図では、「11号線」となっているが現在では318号線が戦後に開通したらしい。それまでは小さな山越え道の「下星越峠」が繁盛していたらしい。木賃宿やらこんにゃく屋や豆腐屋などが店を出していたという。
その入り口が、この「鞍谷大師堂」で、出口が「聖天さんだった」という。ところが、その出口が聖天神社であったという。でも、その神社が見つからない。
これがご本尊の弘法大師座像である。その反対側にあったという伝承だからと、そのあたりを探してみたが見つからない。
こんな立派な神社から見落とすことはあるまいし、見た記憶がありそうなものなのにわからない。
これは集会場の脇に立っている道標だが、これには、「右聖天道」と刻んである。でも、右に行っても左に走っても、そういう神社にはたどりつけない。で、たまたま居合わせたおばあちゃんに聞いてみたところ、
「あの山の上にあったんじゃが、今は誰も行きゃせん・・・。道も草ぼうぼうやし、お社もくっぜてしもうたがな・・」と仰る。お社も崩れてしまったのだと言う。
昭和の中頃までは庵主さんがいたらしくて、夜中にも祈祷をしていたらしく、太鼓をドンドンと叩く音が響いていた・・・というのだが、庵主さんがいなくなると参詣人もいなくなって道も草に覆われてしまったのだという。
これでは幾ら探してもわからないはずだ。ものごとに「絶対」ということはないし、「未来永劫」ということもない。形有るものはいつかは崩れて形をなくする。形のないものは、それを受け継ぐ人がなくなれば消えてしまうのが必然。
仕方なく、「藤井遺跡」という積み石墳墓を見てきたが、これらもやがては竹藪の中に埋もれてしまうことだろう。
私がお坊さんになったとき、全くの偶然で「暁光」という法名をいただいた。それが後日になって「阿弥陀さまの光」だと聞かされて驚いた。「よし、私は闇を破って多くの人々を救う阿弥陀仏のように光り輝くお坊さんになるぞ」と決意したけれど、その足下からすくわれるように病気になって自信をなくしてしまった。
今日のお昼は「野菜サラダと焼きシャケの冷やしうどん」になった。夏らしいパワーのあるおうどんになった。
今日の掲示板はこれ。「顔がたくさんあるように心もいろいろやそれでいいんや」という原田大助くんのことばから。原田大助くんは 「大ちゃん」 と呼ばれる男の子。6年生の時、大阪の養護学校から石川県の養護学校に転校した。現在は成人されているだろうが、彼が中学部になった頃から詩を書くようになった。それは転校した養護学校で、すてきな先生との出逢いがあったことで、彼の才能が開花したのだと聞いた。人の出会いもまた人の成長を助ける要因であるように思った。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。