6日のさぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は15.5度から23.1度、湿度は80%から60%、風は1mから3mの東北東の風が一時は強く音を立てて吹いていた。明日の7日のさぬき市地方は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。
収縮期104mmhg、拡張期61mmhg、脈拍80bpm、体温36.5c/酸素濃度97%/体重64.2Kg 室内気温18.9c/室内湿度549.3%/気圧1024hPa 体調に変化はない。今日の日の出は05:10分、日の入りは18:52分 月齢は5.3の中潮。
さて、昨日が立夏で、期間は20日頃までらしいが、空気は全く初夏そのもの。立夏(りっか)は四季を二十四等分した二十四節気のなかの7つ目の節気。この頃から夏が始まるとされている。土のなかから蚯蚓(ミミズ)やタケノコなどさまざまな生き物が力を持って地上に出てくるようなタイミングで、立夏は春分と夏至のちょうど中間。5月に入り、少し夏めいて来た頃のことをいうらしい。そんな初夏の候、連日のステイホームでは歩けなくなりそうなので、玄関周りの草刈りをやってみることにした。
玄関周りといっても、ここは我が家の土地ではなくて、水利組合のものらしい。向かって右側は「泥上げ場」といって水路の中のゴミや泥土などを積み上げるところ。厳密に言えば、我が家はブロック塀の基礎部分から内側だけ。でも、うっとおしいので、暇なときには私が草を刈ってしまっている。
そんな草刈りの最中に、私の観光ガイドの師匠からの電話連絡。先にメールで送っておいた「遍路墓」の文字の解読をお願いしてあったもののお返事である。梵字の下、「□光信士」は、やはり「夏光信士」と読むらしい。夏ねぇ・・・。
こちらの右側、梵字の下、「道□信士」は、「道清信士」と読むのだそうな。清にしては、下が「日」になっているのに、「月」と読むのかなぁ・・。などと、草を刈りながらの講義を聴いていた。ちなみに、ここは鎌を使っての「手刈り」である。
長さ、7m~8mくらいだろうか。往復しても20分少々だった。長靴をはいて、この水路の中に降りて、一本一本、草を鎌で刈っていたのである。
明日は、その反対側を刈る予定。こちらは長さ20mほどはあるらしい。ブロック塀側だけでも刈ってしまいたいものである。
その後は、作業着を着替えて金融機関巡り。長い連休だったもので、通帳記載や残高確認。保険料やら税金やらがどっさりと引かれていて、残高が数千円しかない。慌てて、別口座から引き出して、メインの口座に振り込んでおいたりもした。三月、四月は、そういう引き落としが多いのだ。
それを家計簿に記帳したり、
月別集計表に転記したりする事務作業も少しばかり。右端の赤字は「予定額」である。支払いが終われば黒字に修正しておく。そうすれば出金予定額の把握ができるというもの。
今日のお昼は、オーソドックスに「カレーライスの玉子かけ」である。別名、「月見カレー」ともいうかもしれない。トッピングはラッキョウと福神漬けと至ってシンプル。でも、少しばかりご飯の量が多かったみたい。
そうそう、銀行からの帰り道、思わぬところに「破竹:はちく」が出ていた。サルが見落としたものだろうか。それをポキンと折ってきた。「ハチクは鎌で刈って縄で束にして持って帰る」と、祖母から耳にタコができるほど聞かされていたが、あいにくと鎌も縄もなかったのだ。
それをいつものように縦割りにして、それを細かく切って鍋に入れた。「包丁が入ったら食べられる」とも祖母に教えられている。包丁で切れない部分は捨ててしまう。固いからだ。
これを小一時間ほど、あら炊きをして下調理。あとは奥方にお任せである。
今日の掲示板はこれ。「グーは人を殴る手 パーは人を撫でる手 グーはパーに勝てない」というもの。いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。その言葉の後に、「手と手を合わせて合掌」という言葉が続く。相手にダメージを与えるために力を込めて拳を握って「グー」で殴りつける。時には激しい言葉を伴いながら、その顔は、鬼のように恐ろしい形相をしていることだろう。心の中もきっと、怒りや嫉妬の炎で燃え上がっているのだと思うことだ。逆に「パー」で頭を撫でるときは、やさしくふんわりと、いたわりのこもった言葉を伴って、笑顔で撫でることだろう。心の中も穏やかで、相手を思いやる慈悲の心に満ちているのだろう。さらにその「パー」の手と「パー」の手が合わさって合掌の姿勢になればいい。日本では仏様を礼拝する時や「いただきます」の時に合掌するけれど、敬いの気持ちや、感謝の気持ちを表す姿勢である。お釈迦さま(釈尊)のお生まれになったインドでは、その合掌の姿勢で「ナマステ」と言いあう。右手が清らかな拳、左手が汚い手と考えられてもいるが、その清浄と不浄のどちらも持ち合わせた、「私」全体で「あなたを敬います。あなたを信用します。」ということである。仏教では「すべての生きとし生けるもものはつながっている」と縁起の教えを説いている。確かに衣食住どれをとっても私ひとりで手にいれたものはない。だとすれば、恩を返し、恩を送っていくための、「パー」の世界、「合掌」の世界を、私からみんなに広げて行こうとすることが大切な生き方ではないだろうか。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。