Quantcast
Channel: まほろば自然博物館
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

石楠花がそぼ降る雨を待っている

$
0
0

 8日のさぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は16.5度から21.3度、湿度は80%から44%、風は1mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の9日のさぬき市は、気圧の谷や湿った空気の影響で昼過ぎまで曇るが、夕方からは高気圧に覆われて晴れる見込み。

 

 収縮期107mmhg、拡張期60mmhg、脈拍80bpm、体温36.5c/酸素濃度98%/体重66.3Kg 室内気温20.1c/室内湿度59.6%/気圧1020hPa 体調に変化はないが、体重がぐんぐんと増えてきている。尿が出ていないからである。今日の日の出は05:08分、日の入りは18:53分 月齢は7.3の小潮。

 

 屋外作業用のつなぎ服。あまりのだらしなさに奥方が裾を直してくれた。ま、恰好だけは元気そうにしておかないと、ますます病人化してしまうものだから。スタイルだけは勇ましくしているだけである。

 

 これでもまだまだ、裾が長いようだけれど、長靴での作業だから、こんなものでちょうどよかろうわい・・と。

 

 今日が「母の日」ということで、お仏壇には「ケーキ」をお供えしておいたし、

 

 奥方には「ガーデン・ブーツ」をプレゼントしておいた。この感謝状は、いつも行くスーパーにおいてあって、「ご自由にお持ち帰りください」と書いてあった。これとともに、カーネーションの花束やらケーキやらを買わそうとする魂胆(?)らしかった。この感謝状をもらってきて、「長靴に穴が開いて靴下がびしょ濡れよ」とぼやいていた奥方にプレゼントしたもの。

 

 ついでに、壊れていた洗濯物を干す「たこの足」も買ってきてプレゼントした。プレゼントというか、「買ってきてあげた」だけのもの。

 

 で、今日は、その、青い「つなぎ服」に長靴姿で、こういう山中にやってきた。東かがわ市長野という集落にある杉木立の中である。今の時期にはヤブ蚊もいないし、マダニや山ヒルがいないだろうと重装備でやってきたもの。昨年には、ここでマダニに噛まれて出血がひどくて病院で縫合手術を受けたという曰く因縁のある場所である。

 

 ここに何があるかといえば、山フキでもハチクでもなくて、「マイ・ブーム」になっている「遍路墓」探訪である。山肌に、こうして点々とお墓がある。ま、お坊さんであるからして、合掌礼拝、お念仏してからの調査になる。

 

 こういうお墓は初めてだ。年月日もなければ戒名もない。戒名の代わりに「生国:しょうごく:出身地」が、デーンと中央に刻まれているばかり。その頭には「梵字」の「ア」

 

 

 が刻まれている。いうなれば、出身地が「戒名:法号:法名」になっているというお墓である。ちなみに、「備後御調郡因島村」は、現在の「広島県尾道市因島」ということになる。ついでながら、「ア」は、全ての梵字の中で基本となるのが右図の「ア字(阿字)」である。師僧から梵字を教わるときも、通常この字から始めるが、この字は種子で「大日如来」を表すため、全ての梵字はこの文字から出生すると説かれる。遍路墓の戒名の最初には、必ずと言っていいほど、この「ア」が刻まれている。

 

 これらも遍路墓である。この倒れているお墓も起こしておいた。普通の人は「恐れ多い」とか「たたりがある」とかで触らないものだが、坊さんだから平気で起こして丁寧に供養しておく。

 

 この人は「浄土真宗」のお遍路さんらしい。「釋厳浄信士」と刻まれている。天保四年に、讃岐の国の「阿野郡」からのお遍路さんらしい。今でも「まんのう町や綾川町あたりには真宗門徒が多い」と聞いている。

 

 今日のお昼も「キャンプ飯」みたいに屋外で食べることにした。我が家のウッドデッキでの昼食である。

 

 今日の「TKG」は、「納豆と明太子の卵かけご飯」である。先日のハチクの煮物も少しのせてみた。ちなみに、飲み物はノンアルコールビールである。お茶代わり、水代わりである。

 

 今日の掲示板はこれ。「他人と比べず、比べるのはこれまでの自分」というもの。いつもの町内の善楽寺さんのお寺の掲示板から。多分、宮城大学初代学長を務められた野田一夫さんの言葉だと思うのだが定かではない。元来、競うことは、自分自身の到達レベルを見極めて、自分とひたすら向き合うためにあるものだが、ありきたりの勝敗ばかりに目が向くようになって、他人との競争、比べっこになってきた。私たち団塊の世代はその最たるものだった。「あの子が偉い」「あの子は賢い」「あの人はいい会社に入った」「だから、あの人はいい家に住んできれいな奥さんをもらった」などと、本質的な成長、進化よりも、表面的なきれいごとの羅列に意識が向くようになってしまってきた。また、それらがさまざまな争いの大きな要因にもなってきた。本来、競うことは他人と比べることではない。過去の自分より、どれだけ成長、進化できているかを、確認するためのものである。いずれにしても、競うことでしか、自分の成長、進化を、計れないというのは淋しいことではあるが、他と比べることにしか、意識が向けられなくなると、真の成長、進化は実現していかない。超えるべきは、常に過去の自分自身である。

 

じゃぁ、また、明日、逢えると、いいね。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3558

Trending Articles