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Channel: まほろば自然博物館
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梅雨の河淡い光を運ぶ鳥

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 22日は、梅雨前線や湿った空気の影響で概ね曇り、昼前は雨の降る所があった。明日の23日は、高気圧に覆われて概ね晴れりうが、気圧の谷の影響で昼前から夕方にかけて雨の降る所がある見込み。

 

 さすがに「梅雨だなぁ」と思える昨今。まだお迎えがやってこない。命が尽きると言うことは、こんなにも苦しいものなのか。楽なままで逝けたらよかったにと思うのだが、こればかりはしかたが無いらしい。かかりつけ医のドクターが何回も死の宣告をしてもニコニコとして病院に現れるのだからあきれ顔である。

 

 よく、「あの人はいい人だったのに早死にしてしもうたね」なんぞという話を聞くたびに、「そうか、オレはいい人じゃないからなかなかに死ねないのか」と陰口の一つも叩きたくもなるでは無いか。

 

 それにだ、例の「遍路墓学事始」が完成したとたんに良友が亡くなり、この私が病魔に取り憑かれたのだから、赤の他人のお遍路のお墓をいじくり倒したせいかも知れないと考え込んでしまうことがある。まさか、この科学の進歩した現代において、そんなことが起きるはずがないじゃないかと思ってみても、お墓にワイヤーブラシをかけられたお墓の主は喜んでいるはずはないな。

 

 さて、マクラはそのあたりにしておいて、今日の本題である。普通、浄土真宗の信者は「位牌」なるものを作らないとされている。私たち非力なものが「追善供養:回向」なんぞできる訳がないからである。でも、このあたりでも、立派なお墓を作ったり建てたり、こうした立派な位牌を作るようになったのは、葬儀社の意向が働いているのかもしれない。

 

 我が家の仏壇にも、このような「位牌」がある。中には薄い木の板が10枚ほど入っていて、そこに故人の法名やら俗名やらをお寺さんに書いてもらって納めてある。ご法事の時には、その繰り出し位牌を前面に出してお経を読む。でもだ、故人は「佛」となって極楽浄土に居てるのだから、こんな木箱の中にはいないのだ。

 

 で、過去帳という手もあるのだが、10数年前の台風で流されてしまったので昔の情報が残っていない。それを復刻するとなると大変だ。そこで、こういう「法名軸」というものを考えている。

 

 こういう風に、文字を書いてつるすらしい。でもだ、お葬式もしないのだから檀那寺に書いてもらうわけにもいくまい。かといって、カラープリンターではつまらんじゃろうに。はてさて、どうしたもんじゃろうかい。

 

 次にだ。観光ガイド用の制服も返納したいのだ。置いても仕方が無いし、ゴミ出すにも手間だし。で、あさってに、仲間に「形見分け」ということで、「一式」を分与したいと考えている。

 

 こういう「式章」とか、私の「南無阿弥陀仏」の文字入りの白衣とか。

 

 それに膨大な「大窪寺ガイドマニュアル」なんぞも。

 

 ざっと50冊以上はあるように思う。「あなたの持ち物は、私があなたを偲びながら泣きながら片付けするの・・・」とけなげに言うていた奥方だが、あきらめがついたのか、どんどんと準備をしてくれている。特に本は重いから仲間にあげたほうがすっきりとするではないか。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生に回り道はあっても 近道はない」というもの。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。京都の永観堂さんのことばかも。人生の目的地がどこか・・という疑問もあるけれど、遠回りして気づくならば、それも悪くないし、遠回りするからこそ、気づくことだってあるように思う。「歳をとりすぎた!」「チャンスを逃した!」「今からでは遅い!」「もう手遅れだ!」と言うのは簡単だが、まずは一歩踏み出せば、見える世界が変わるもの。遠回りは、幸せへの近道なのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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