さぬき市地方は前線を伴った低気圧の影響で雲が広がり、雨が降ったり止んだり強い風が吹いたりと落ち着かない天候になった。気温は14度から20度、湿度は95%から44%。風は1mから7mの西北西の風が吹いたりやんだり・・・。明日の31日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしい。
昨日はしっかりと歩いたものだから、今日は犬の散歩に行っただけで、デスクワーク三昧になった。昼前には空も明るくなったので少しだけ散歩に行ったが、またしても小雨が降ってきて、大急ぎで戻って来てしまった。
我が家のチューリップも小振りながらどうにか花が咲くようになった。いよいよ来週からは四月になる。四月になるからと云ってうきうきするような出来事は待っていそうにはない。
昨日の続きで「妙好人の旅」という本を読んでいた。三河のお園さんは御殿医の奥方になった人というから苦労も人一倍あって、これまた地獄をかいま見た人生を過ごした人。その後に、これまで「妙好人伝」には出て来なかった人が並んでいる。
それが小林一茶に良寛さん、そして林芙美子。妙好人と云うのは真宗の篤信者で、信心の喜びと絶妙さに触れた人をたたえた言葉である。その意味では学問の有無、知識、教養人の区別はなく、仏の慈悲に会うことを喜んだり、お念仏を喜んだりする信心の人びとである。そして、江戸時代末期から明治の初めごろに選ばれた人たちだった。
子供らとマリで遊んだ良寛さんは十八歳の時、曹洞宗の光照寺で出家した。その後、転々として、良寛さんの墓は浄土真宗本願寺派隆泉寺(新潟県長岡市=旧三島郡和島村)にあって、銅像もある。この隆泉寺の総代・木村家と良寛さんは縁が深かった。木村家の一室を借り、貞心尼らと歌会をしていた。六十九歳ごろから周囲の人のすすめで木村家に移り住んだという。老いてゆく良寛さんはおそらく一人暮らしが厳しくなったのであろう。ここが良寛さんの終のすみかとなった。しかしのかかし、お坊さんが「妙好人」というのはこれまで聞いたことがない。
長野県上水内郡信濃町相原という地には、幾多の苦難に遭遇しながら阿弥陀仏にすべてを任せたような境涯を送った俳人がいた。それが小林一茶だった。一茶晩年の旬に「弥陀仏のみやげに年を拾うかな」や「ともかくもあなた任せの年の暮れ」がある。この旬には、一茶の弥陀の本願に任せつつ生きた念仏者の法楽的生き方を感じられる。「涼しさや弥陀成仏のこのかたに」などは親鸞聖人の和讃の一部だという。一茶の菩提寺は相原の明専寺にあって、浄土真宗本願寺派のお寺だそうだ。
でも、小林一茶が「妙好人」」だった・・・というのは初耳だった。
さて、昨日の歯の痛みは肩こりと同様に嘘のように消えていた。やはり、睡眠こそが妙薬なのかも知れない。昨夜も食べ放題、飲み放題でBS放送なんぞを楽しんで、ぐっすりと寝てしまって、夜中に一回も起きることなく朝を迎えた。眼が覚めたのも七時を大きく回っていた。まさに「春眠あかつきを覚えず」という気分だった。
さて、数年来の「英国士官レキの墓研究」も一段落して、今年の梅雨時に資料を整理して論文にまとめて仕上げたら、これで一件落着にしたい。これ以上の資料が出てくるとも思えない。その後が問題だ。何の勉強をするのか、何の調査をやるのか、何の研究を始めるのか・・・。
「四国遍路の影の部分」については継続してゆきたいのだが、「四国遍路と真宗門徒」というのもおもしろいかな・・・とも思ったり。でも、塩飽諸島での何かを忘れてもいけないし・・・。
ま、とりあえずは、本山へ提出する課題レポートの仕上げと送付が先決問題。四月中旬には片付けてしまいところ。それが終われば五月いっぱいまでは自由研究のし放題。何をやるかが問題だけれど。
今日の掲示板はこれ。「どんな小さい花でもいい 誰のものでもない独自の花を咲かせることだ」というもの。これは、坂村真民さんの「悟り」という詩の中にあることば。「悟りとは 自分の花を咲かせることだ どんな小さい花でもいい 誰のものでもない 独自の花を咲かせることだ」ということばから。
坂村真民さんは熊本県荒尾生まれ。8歳で父を失った。神宮皇學館を卒業後、25歳で朝鮮に赴いて教職についた。36歳で終戦。帰国後、愛媛県で高校教師をつとめ、65歳で新田高校を退職。以後、詩作に専念した。四国に移住後、一遍上人の信仰に随順し、仏教精神を基調とした詩の創作に転じる。41歳で個人詩誌「ペルソナ」創刊。1937年、53歳月刊個人詩誌「詩国」を創刊、森信三と出会った。71歳のとき、正力松太郎賞。80歳のとき、NHK「念ずれば花ひらく」が放映された。95歳のとき、「詩国」500号にて終刊。2006年、96歳にて往生した。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。