さぬき市地方は、高気圧に覆われて、概ね晴れていたが、夕方には雲が出てきた。気温は2度から14度と少し低め、湿度は80%から44%。風は2mの北東の風が少し。明日の8日は、引き続き、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。
お泊まりだった、次男のよっくんといとこのみっちゃんは朝方に帰って、次男のたっくんが「山登りに行こう」ということで朝食後に出掛けてみた。なんでもローカル新聞に日本一浅い湖・・・ということで、我が町の「鬢盥(びんだらえ)」という水たまりが紹介されたらしい。で、そこを観てみたい・・・と言うもので。
さぬき市大川町北地(きたじ)集落にある真言宗の「西教寺」さんに車を置かせてもらって、そこからてくてくと歩くことにした。
右下隅の「西教寺」からこの看板のある現在地を経由して「麿崖仏(まがいぶつ)」や奥の院を見学して、休憩所を経由して最終の「展望台・鬢盥」を回って戻って来るコース。つい、先日にも歩いたコースだ。時間的には20分、15分コースというが、今日は奥の院までが30分、展望台までが20分の1時間コースになった。帰りは半分の30分だった。
最初はこうした遊歩道を進んで行く。足下は凝灰岩の壊れた石ころがごろごろしていて歩きにくい。
30分ほど坂道・遊歩道・・・(石ころの坂道)を登って行くと、こういう場所に出る。これが「西教寺の奥の院」。左上の巨石が「麿崖仏」。西教寺から800m位登った火山(ひやま)の中腹に「穴薬師」(梅が谷)がある。堂内には高さ約90cm薄肉彫りの磨崖仏厄除薬師如来像が岩崖内の壁面に刻まれている。薬師如来像の右側には、高さ約1mの十二神将一体が厚肉彫りで刻まれ、その他に浮き彫り線刻等の手法による小像や丸彫りの像が安置されている。
堂外の岩壁には、頭部の長さ約70cm、胸部までを肉厚彫りにした半身の巨大な薬師如来像磨崖仏がある。『西教寺の磨崖仏 「彫刻」大川町指定文化財(現さぬき市)(昭和43年5月1日指定)』伝空海作
この奥の院からさらに遊歩道を進むこと20分。これが、その、「鬢盥(びんたらえ)」。瓶盥は約16m×10m 水深約30cmといわれ、平成七年の調査では面積125平方メートル、水量16トンであったそうだが訪問時は、かなり水が減った状態のようだった。昔の火山(ひやま)は火山(かざん)で、噴火口に水が溜まり瓶盥になったという話も伝わっているが、確かな話には思えない。(水深が30cmってどうなんよ)
瓶盥の名前については、長宗我部元親が、隣の雨滝山にある雨滝城を攻めた時、合戦が終わって疲れた兵士がここへ来て頭の鬢を洗ったという。そこからこの穴を”びんだらえ”と呼んだらしい。(”びんだらえ”は方言で、標準語では”びんだらい”)だが、今は、イノシシの水洗い場になっているらしい・・・。
午後からは、大川ダム周回の散歩に行ってきた。昨日は朝から昼から夕から夜まで飲んでしまったので、今日は少し気分を入れ替えて・・・・。
ダムの桜はまだまだ健在。はなびらもあんまりこぼれてもいなかった。あれだけの雨と風であったのに・・・。それだけ気温が低かったのかも知れない・・・。
今日も我が家の周辺では、こういう若者が走り回っていた。ま、実害がなくて走り回る分には好き勝手にやってもらいたいものだ。
本山へ四月末に提出するレポートも早々に郵送しておいた。いつまでも課題が重荷になるのも耐えられないし、自分の行動が束縛されてしまうから。これで二〜三ヶ月は精神的にはフリーになった。だから、パワーポイントを使っての法話集を作って遊んでいた。
とにかく、できることからこつこつと。目の前にある課題をひとつひとつ片付けてゆくしかない。今日の山登りでも散歩でも、とにかく一歩を踏み出さないと進歩はない。とにかく、面倒でも重くても、一歩を踏み出さなくては進歩はない。
今日の掲示板はこれ。「あのときの あのときの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな 肥料になたんだなあ じぶんが自分になるための」という相田みつをさんの「肥料」という詩のことばから。存在する意味や価値のない人間はひとりもいない。という事は誰にとっても意味のない時間はないという事だ。あらゆる時間のあらゆる営みに意味があり、それぞれの人間の歴史を刻んでいく。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。