さぬき市地方は気圧の谷の影響で雲が広がっている。夕方からは雨が降るらしい。気温は15度から22度、湿度は83%から90%。風は1mから5mの南南東の風がときおり吹いてくる。肌寒いようで、何か羽織ると蒸し暑い感じもしてくる。明日の15日は、前線を伴った低気圧が四国の南岸を通過するため雲が広がり、昼頃にかけて雨が降るらしいが、夕方からは高気圧に覆われて晴れる見込みとか。
さて、今月の25日に高知方面へ「四国霊場開創1200年記念」ということで、「おへんろ研修」に行くことになった。ま、私の場合は「おまいり」に行く訳ではなくて「おへんろ文化の学習」ということなんだが、どういうスタイルで、どういう服装が良かろうか・・・ということで、近くの札所で予習をしておこうか・・・ということになった。
ここは四国霊場三番札所の「金泉寺」さん。ま、普通のお遍路さんはこういう「おいずる」という白衣を羽織っている。それに輪袈裟というか「半袈裟」をかけている。この左の黒い着物の方は「先達:せんだつ」さんで、それなりのスタイルだが、私がこんなスタイルで行くのもいかにも変だ。ちなみに、真言宗の場合には「改良衣」と云うらしい。
でも、こういうお寺は「聖地」とされているので、ぞんざいな服装でお邪魔するのも失礼だし・・・。
ここは一番札所の「霊山寺(りょうぜんじ)」さん。お遍路のスタート地点だから、みんな真新しい白衣を着て、お経やお作法のお勉強中。左の私服の青年は、これからお遍路を始めるらしく、よそさまの講義に混じってお勉強中。
さて、一番さんを過ぎて鳴門市方面に数キロあたりに、この「阿波神社」がある。阿波の国に「阿波神社」があってもなんら不思議ではないが、実はここに珍しいものがある。
上の写真のすぐ左手にあるこの施設。宮内庁管轄の施設で、「土御門(つちみかど)天皇火葬塚」と云われるものである。つまり、ここで天皇を火葬にした跡だと云うのだ。
手前の看板には、昨日の「崇徳天皇陵」にあったのと同じ立て札が立っている。
承久3年(1221)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波の国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。その地は、現在の阿波市御所で、土御門上皇行宮址と刻んだ石碑がある。
その後、土御門上皇は、阿波の守護所近く、南陽神社あたりの行在所で8年余りの謫居(たくきょ)の後、寛喜3年(1231)、37才の若さで亡くなったと伝えられている。火葬所についても、諸説があるが、池谷(いけのたに)の古墳塚で火葬にされたと伝えらる。明治2年(1869)、藩主蜂須賀茂昭(もちあき)がこの地を御陵と決め、また明治5年(1872)宮内省が再決定し、御火葬塚となったと云う。
そして、その「土御門上皇」を祭神としておまつりしたのが、この阿波神社だとされている。
それにしても、お遍路にはいい時期になったのか、五番地蔵寺、四番大日寺、三番金泉寺、二番極楽寺、一番霊山寺には老若男女のお遍路さんがわんさかとお参りをしていた。今年は旅行会社も「開創1200年記念」ということで大いにPRをしながらお遍路募集をやっているみたい。
今日の掲示板はこれ。「本気でやれば何でも面白くなる! 夢はでっかく!根は深く!」というもの。「あいだみつを」さんの言葉でもあるようだが、定かなことはわからない。大分県の出身である「後藤 静香(ごとうせいこう)」さんは昭和44年に84歳で亡くなられた方だが、その教えは現代にも生きているようだ。
本気
本気ですれば、大抵なことは出来る
本気ですれば、何でも面白い。
本気でしていると、誰かが助けてくれる。
人間を幸福にするために、本気で働いているものは、
みんな幸福で、みんな偉い。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。